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著名経営者の経営者インタビュー

島根県 教育魅力化特命官 / 一般財団法人地域・教育魅力化プラットフォーム 代表理事 岩本 悠《後編》

人間シリーズ② 人間 岩本 悠《後編》

≪後編≫
後編では、運命の島根県の海士(あま)町との出会いに始まり、海士町での悪戦苦闘の日々を振り返る。苦難の岩本の心の中には、いつも仏陀の存在があった。無私の精神。最後に岩本を支えたのは使命感だった。俺がやらねば誰がやる。ここで俺が踏ん張らなければ世界は変わらない。岩本の人生を賭けた越境は逆境になり、次第に人々の心を動かし、大きな成果に繋がっていく。隠岐の離島から始まった熱狂は、近い将来に世界中に伝播し、幸せな社会の実現に貢献していくだろう。

→前編はこちら

過疎化の島が変革の最先端となる

―もうすでにその頃に原型があったんですね。島根県海士(あま)町との出会いもその頃ですか?

岩本:そうですね。社会起業家である尾野寛明さんから出前授業(※)をやってもらえないかと声をかけられました。その出前先が島根県海士町だったんです。お恥ずかしいことに当時は海士町がどこにあるのか、そもそも何と読むのかも分からなかった(笑)。

 僕の出前授業では島の学校で「自分と地域と世界のつながりを五感で体感するワークショップ」を一日がかりでやらせてもらいました。夜は島の人たちを交えて海鮮バーベキューでした。町長や議員さん、役場や町づくりに関わる人たちが集まり、島の話をたくさん聞いた。この半世紀で島の人口は7,000人から2,400人と3分の1に減ったこと。人口の約4割は65歳以上、1年間に生まれる子どもの数は10人足らず。さらに以前の公共事業による負債で町は財政破綻の危機に瀕していることなど。どれも驚く話ばかりで、ここまで地域の衰退が急激に進んでいるとは思ってみませんでした。

 でも、島の人たちは現状を悲観するだけでなく実際に行動に移していました。何が何でも島を守るんだという強い決意のもと、町長以下、役場職員など自らの給与をカット。その浮いた財源を未来への投資として子育て支援や教育に充てていた。また島の経済自立に向け地域資源を活かしたモノづくりにも奮闘していました。感動しましたね。このままではダメだという危機感。いまワシらがやらんで誰がやるという使命感。この島や島の文化を未来に残したいという志。まさに21世紀のサムライたちがそこにいました。

 その時に島の教育委員会や役場の方から、少子化で生徒数が激減している隠岐島前高校の存続問題について相談を受けたんです。「学校の存続は地域の存続に直結している。なんとか隠岐島前高校を守りたい。なにか良い方法はないだろうか。たとえば有名大学に進学者を出すとか」。相談を受けて僕は「有名大学に進学させるのもいい。でも島の未来を考えると、実社会で活躍できる、もしくは島に戻って地域を元気にできる人づくりを目指すべきでしょう。そのためにも島の人や自然、産業などの地域資源を活用し、学力だけでなく、人間力や志も育むような教育環境を作るべきなのではないか。そうなれば島内の子どもだけでなく、島外からも子どもが来るようになり、高校も存続し、次世代の地域つくりの担い手を育てることにもつながる。高校の魅力化がそのまま地域の持続可能性にもなる」というようなことを話しました。そんな話を熱くして、その夜は終わりました。

 そして翌日に島から帰ろうとすると、役場の教育長や財政課長などに「昨晩の話だけど具体的にいつ頃から島に来てもらえますか?」と真顔で切り出された。戸惑いました。その場では「東京に戻って、しっかり考えてみます」と答えるのが精一杯。島にいると、今までの価値観が揺らぎ、正常な判断ができないままにOKと言ってしまいそうな気もしました。

 フェリーから遠く離れていく島影を甲板から眺めていると、この島が日本社会の縮図のように思えてきました。いま島が直面している人口減少、雇用縮小、財政難。この悪循環は他の日本の多くの地方が抱えている課題と同じであり、ひいては日本の未来と同じ課題であると。いや日本だけでなく、世界の先進国も同じように少子高齢化になることを考えれば世界の課題でもある。この課題に真正面から挑戦して、成功モデルを作ることは、この島だけでなく他の過疎化地域、日本、そして世界の課題解決につながるのではないだとうか。そんな想いが僕の胸中に湧き上がりました。

 歴史を紐解けば、日本は明治維新以降、中央集権的に地方から東京に人材を集め強い国を築き上げました。東京を先頭に欧米に追い付け追い越せと猛進する流れは、日本を豊かな先進国に押し上げたのは間違いありません。その一方で地方は過疎化し、少子高齢化が進みました。だいぶ前に日本経済も曲がり角に差し掛かり、高度経済成長も止まり、人口も減少期を迎え、社会も価値観も大きく変革すべき時期に来ています。

 そんな状況下で、今まで時代の最後尾にいたはずのこの島が、次の時代を牽引する最先端のタグボードになれるかもしれない。いちはやく成功モデルを生み出せば、次世代の社会のロールモデルになれるかもしれない。そんな妄想が僕の頭の中に広がりました。そうとなれば迷うことはない。即行動。島の人たちの本気に魅せられ、この地で高校を軸に教育改革をしていこうと決意しました。

※出前授業:活躍するビジネスマンなど社会人講師が、小中学校に出向いて特別に行う授業のこと。特にその人が専門とする分野やキャリア形成などをテーマに話すことが多い。

自分の成長モデルにも限界が

―岩本さんの中でも機が熟した頃だったのでしょうか。そろそろ立ち上がる時が来たと。

岩本:そうですね。実は僕自身も価値観の転換を迫られていた時期でもありました。ソニー入社後、僕の生活といえば常に無駄をそぎ落とし、いかに効率的であるかに重きを置いた生活でした。東京での出勤も忙しいビジネスマンそのもの。朝は仕事に関するオーディオブックを聴きながら自転車を飛ばして通勤。移動も時間の節約と体力向上のため、歩かずにいつも走る。電車のドアが開くと同時に猛ダッシュで階段を駆け上がり、改札を一位で通過。当時の僕からすると、ゆっくり歩いている人は暇人であり、ときどき邪魔だとさえ思っていました。食事も効率的にとりました。栄養補給はF1のピットインを理想だと思い、何でも超ファーストに食べる。自宅も会社から30分のところに借りて、仲間とシェアハウスをやっていました。でも、仕事で深夜を過ぎるとそもそも帰るのが面倒になり、洗面所で顔や頭を洗い、会社の会議室に寝袋で泊まっていました。髪型も気にせず、坊主頭。シャンプーや整髪料など一切不要な坊主頭が便利でした。一分一秒を惜しんだ結果、睡眠時間がどんどん削られ、横になると気を失うように一瞬で深い眠りに落ちました。睡眠時間まで効率的になったと当時は思いましたね(笑)。

 人間関係も優先順位を明確にしました。いま一緒に仕事をしているメンバーが一番。今後仕事で関係を持つかもしれない人は二番。過去の仕事の関係者は三番。「志が低い」、「頭が固い」、「挑戦しない」と思った人は相手にすらしない。仕事と関係ないおしゃべりやお付き合いは、時間の無駄として避けました。

 そんな生活を続け、突っ走ってきた僕にも限界がきていました。慢性的な睡眠不足、視力と体力の急激な低下。健康を切り崩して得た僕の“成長モデル"も悲鳴をあげていました。僕自身が変わらないといけない時期でもありました。日本社会が次の形を模索していけなければいけないように、僕自身も次の段階へ移らなければいけない。世界を変える前に自分を変えなくてはと。

 島に行けば、年収は半分以下。雇用契約は3年しかない。その後の保証は一切なし。それも面白いじゃないか。久々に心が晴れて純粋にワクワクしました。

―大きな決断でしたね。世界を流学してきた岩本さんにとって、海外でのチャレンジの選択肢はなかったんですか?

岩本:海外の選択肢もありました。それまでずっと海外の途上国支援をやっていましたから。でも、わざわざ海外に出なくても、自分の足元に日本の地域があり、そこには課題が山積していた。変な話に聞こえるかもしれませんが、僕にとっての途上国的な要素は日本の地域も持っていると思ったんです。

 まず自分の足元の日本の地域を何とかしたい。地域の教育を変えて、教育を通じた持続可能な社会を実現させる。学びを通して子どもたちを幸せにする。そして、幸せな世界をつくる次世代の若者を育てていく。

 また小さい島なら一人の力で変えられるかもしれない。目指したい社会像を世の中に提示できるかもしれない。小さいところから変えていく。あるべき教育の在り方、理想を具現化させたい。そんな想いを持って26歳の時に海士町に行きました。

理想論だけではダメ。地に足付けて、泥臭くやり抜く

―なるほど。26歳の若さで腰を据えて本気で泥臭く取り組もうとしたのは凄いですね。岩本さんの今までの話を聞いていると、どちらかというと短期間で華々しく活躍してきたように思えました。島に移住して、地道にやるという決断をよくできましたね。

岩本:確かにそれまでどちらかというと地上戦というよりも空中戦。継続的というよりも単発のイベント的な動きが多かった。同時に自分の中でも、こんなことを続けていても表面的であり、社会構造そのものを変えることはできない。どこかで地に足付けて、しっかりやる抜くことが大事だ。そう漠然といつも思っていました。

 いくら机上で理想論を語っても世の中は変わらない。自ら現場に飛び込んで泥臭いことをしなければいけない。このまま空中戦ばかりしていてはダメだと。自分で一度は地べたをはって、自分の手で創りあげていく。システムや制度論を展開するのは後でもできる。若いうちに課題の最前線で修羅場をくぐる。それは自分の成長にとってもいいだろう。そんな気持ちでした。

 また流学体験も影響していましたね。大地に足をつけると、そこから見える景色がある。現場に飛び込み一体となり、人々と一緒に寝て一緒に飯を食う。地上戦でいろんなコミュニティに入らせてもらい、関わらせてもらう。そこに真実がある。そんな真理を体で覚えていました。

 大学卒業後はソニーという大企業で働き、大都会でイベントをやって大勢の前で話をする日々。その乖離というかギャップの感覚が自分の中にずっとありました。もういちど脱皮するときかもしれない。一度ゼロに戻り、また新たな景色を切り拓きたいと思いました。

瞑想して自分の腹に問う。最後は直感

―海士町への移住の最終的な決め手は何だったんですか?

岩本:縁ですね。最終的には直感。全身で感じて腹落ちした。ここでやり抜こうと。

 また僕はなにか大きな決断をするときは、最後に瞑想するんです。一人で瞑想して心を透明にして、本当にそれに命を懸けられるのか自分の腹に問う。腹からそうだ!と思って初めて決断するようにしています。その一連のプロセスを非常に大事にしています。決断した後に色々と苦難があっても、その決断のプロセスを振り返ることで最後に踏ん張りがきく。

―岩本さんの決断の軸ってなんですか?

岩本:アウトプットとしての社会貢献、インプットとしての自己成長、その二つが最大化できるかどうか。二つが最大化できる場所が、自分が最も活きる環境だと思います。当時の僕にとって、そこが海士町だったんです。自分の命を輝かせ、世の中に価値を生み出す挑戦ができる場所。

―実際に海士町に移ってどうでしたか?

岩本:島での生活は新鮮でした。水も食事も空気も美味しい。家の前はすぐ海。仕事場もすぐ近く。満員電車に揺られることもなく、夜は満天の星空の下で波の音を聞く。東京の友人からは「なんでそんな田舎に行くんだ」とよく言われました。でも逆に島に来てからは、僕は東京の友人に聞き返しました。「なんでまだ東京にいるの?わざわざ高い金を払って狭い家に住んで、汚い空気と水、新鮮でもない食材に囲まれて、窮屈な満員電車に揺られて過ごす日々。ネットが普及した今、なぜ東京に住むの?」と。でも新鮮だったのも最初の1か月ほどでした。その後は“現実"が待っていました。

 まず島の人とスピード感が合わない。打ち合わせも長い。話が直線的、段階的に進んでいかない。話が循環したり、らせんを描く。それがらせんと気づくまでに3年かかりました。当初は脱線した無駄話にしか聞こえなかった。

 何を言ったかという話の中身の合理性や論理性より、誰が言ったかという話した人の信頼性や人間性で決まる。そもそも島の人たちと信頼関係を築くには、仕事と関係なくても、地域の行事や飲み会に参加することが大事。自分の都合より周りとの調和、規模よりも機微、話すことよりも聞くことが大事。

 島に来た当初、僕は3年後の出口戦略を描き、そのための1年後、1か月後といった目標を設定し、週ごとに計画、日ごとのタスクにまで落とし込んでいました。でも、そんな計画通りに進む気配など全くなかった。次第に僕の中で焦りやイライラが募りました。

 しかも島の人たちに歓迎されるどころか、「よそ者が何を言っとる」、「いつまでいるつもりだ」、「外から来て島をかき回して帰るのか」などと言われ、ある日など初対面の人に「俺は外もんが嫌いだ」と頭を叩かれたことさえありました。情けなく、つらい日々が続きました。こんなはずじゃなかった。Iターンとかよそ者とか区別されるのに本当に辟易しました。同じ日本人なのに、海外から来た移民のような気分でしたね。

 高校においても同様でした。そもそも存続の危機に陥っているのは“県立"隠岐島前高校であり、僕の立場は海士町の嘱託職員だった。県と町では管轄が違う。高校改革に乗り込んだのに、高校の管轄外の所属で完全なよそ者だったんです。

 もうそうとなれば腹をくくるしかない。あれこれ不満を言っても前に進みません。これは修行だと自分に言い聞かせました。「これは新しい21世紀型の越境的リーダーシップの実践研究なんだ」、「最初に道を切り拓く人間が苦しいのは当然。後から続く人たちがもっと早く先へ進めるようにするための受難なんだ」と思い込み、日々自分を慰めていました。

3年目にして、ようやく学校内に席を置いてもらう

―実際に現場に飛び込んで物事を進めるのに思いのほか時間がかかったわけですね。

岩本:県立高校と地元の3町村が同じテーブルについて協議できる関係づくりと組織作りで丸1年かかりました。高校の教職員、保護者、3町村の行政、中学、住民などによる話し合いや県との調整、未来に向けたビジョン作りでさらに1年かかった。そして、3年目にしてようやく高校の職員室に僕の席を置いてもらえました。3年目にして当事者として中に受け入れてもらえたんです。

 その後、立て続けに高校の魅力化に取り組みました。生徒数が少ないことを逆手にとった少人数制教育の実践。地域を舞台にした自分や社会の未来を学ぶ地域密着型カリキュラム。現代の松下村塾を目指す公立塾「隠岐國学習センター」の設置。目玉は島留学。全国から意志ある高校生を募集し、地域の高校で受け入れる。小規模校ならではの課題である固定化した人間関係や価値観の同質化を打破でき、同時に多彩な刺激や切磋琢磨を生み出しました。

 海外に出たいというだけのグローバル人財でも、地元にずっといて身の周りのことだけに関心があるという内向きローカル人財でもない。地域から世界にも繋がっていける「グローカル人財」の育成を目指しました。

 戦後の日本教育が生み出した「標準」や「適正人数」といった発想からの転換。人口減少時代の新たな教育の在り方を目指しました。生徒の個性を活かし、一人一人の力を最大限に伸ばす。持続可能な地域づくりの拠点としての学校の在り方を模索したんです。

―高校を魅力化し、そこを拠点化して地域創生につなげたわけですね。

岩本:島に来て約8年が経ち、廃校寸前だった隠岐島前高校は日本全国や海外からも志願者が集まる学校に様変わりしました。「ここで子どもを育てたい」と若い家族が移住する教育移住という新たな流れもできて、出生数も増加。視察や研修、交流の依頼が絶え間なく来るようになり、教育改革の先進事例、学校を起点とした地域創生モデルなどと言われるまでになりました。

 ただ一方で「あれは島という隔離された場所だからできた」、「あれはあの小規模だからこそできた」、「あれはあの人がいるからできた」といった声も聞かれるようになりました。また海士町の事例を表面的に真似して、結局うまくいかない事例も出始めました。

―海士町の成功は特別だと。そんな声が出始めたわけですね。

岩本:そうです。僕にしたら、なにも特別なことなんてない。日本全国どの地域でも実現できる。海士町の事例をイチ田舎の特殊な事例で終わらせたくはない。ここで終わらせてしまったら、日本の未来がない。本気でそう思いました。

 また僕自身も次のチャレンジをしたいと思うようになっていました。同じ立場でやり続けることで、次第に困難や失敗が減り、僕やチームの成長機会も減ってきているように感じました。また僕が続ければ続けるほど属人的なものになり、いま以上に普及困難になっていくのではないか。この取り組みをもっと持続可能に、他の地域や日本、世界に展開可能なものにしたい。そうしてまずは島根県全体の教育魅力化へと広げることを決めました。2015年に島根県教育魅力化特命官となりました。

ロールモデルは仏教の開祖の仏陀

―ちなみに岩本さんのロールモデルは誰ですか?

岩本:口に出すのもおこがましいですが、仏陀です。あの仏教の開祖の仏陀。私利私欲を超越して、人類の幸せに大きく貢献した人。仏陀が残したものは1,000年以上の時を経ても今も人々を救い続けています。時代や国境を越えて人類に大きな影響を及ぼしている。偉大な存在です。もちろん僕なんか遠く足元にも及びませんが、ずっと憧れています。

―岩本さんの苦しい時に、心に仏陀の存在があったわけですね。

岩本:海士町に行った当初、僕は本当に島の人々に受け入れてもらえなかった。つらかった。成果も出ていない。自分に自信が無くなり、空回りしていました。もう修行だと思わざるを得なかった。修行僧みたいな日々でした。

 それまでは僕自身、人生をドラゴンボールだと思っていました。20代前半まではドラゴンボールの世界観だった(笑)。どんどん強くなって敵を倒していく。強くなっていく喜び。逆境こそが自分を成長させる。

 しかし20代後半にかけて、仏陀とかナウシカとかに自分のロールモデルが変化していった。何かのために自分の命を捧げる。海士町に身を投じて、自分の中でも質的に大きく変化していきました。海士町の中では「オレがオレが」の自己主張は違和感があった。その代り、子どもや学校のために、この島のためにと。自分の主語が地域や社会に置き換わった。今までのように小さな自分の欲求に囚われていてはダメなんだと。そんな次元では通用しないと痛感しました。

―いい歳の取り方をしていますね。20代までは若さ全開で欲望のまま突っ走り、20代後半から主語が社会に置き換わる。理想的ですね。世の中的に見ても早熟なのでは。

岩本:でも、最近また変化がありました。歳も30代後半に入り、いま40歳です。今では自分も社会も両方が大事だと矛盾なく同居できるようになりました。違和感なく自分の中に同居できている。しかも、それを外に発信できる。以前までは自分のことを外に発信するのはダメだと思っていました。自分のことなんかより、社会のため。自分の我欲など絶対に出してはいけないと。

 でも、これも長続きしないことが分かった。持続可能性がなくてはいけない。自分も社会も両方大事。自分の欲があってもいい。それを外に出してもいい。40歳を目前に自分の中でそんな変化が起こりましたね。

日本の教育改革を次の5年でやり抜く

―これからの40代、50代の岩本悠は、どこを目指しますか?

岩本:自分がこういう立場になりたいとかはありません。ただ、実現したいことはあります。学校教育の改革、まずは高校。世の中が後戻りできないところまでやり抜きたいですね。次の5年が勝負です。

 そして5年後以降は世界に展開していきたいと思っています。いまは日本国内が中心ですが、2025年に大阪で万博があるので、それをマイルストーンにしています。2025年の万博を通じて世界に新たな教育の在り方を日本発で発信していきたい。その後に世界への展開は途上国も含めてより本格的にやっていくつもりです。教育を通して世界の平和に貢献していきたい。

 また最近、興味関心が湧いてきたのは、テクノロジーと幸せの関係。僕はいままでテクノロジーを信じていませんでした。アンチまでいかないにしても、意図的に避けてきた。教育も、なるべく昔から地域にあるモノを五感を通じて学ぶことを大事にしてきた。でも、これからの時代はテクノロジーを使いこなさないともったいない。無理に遠ざける必要もありません。いかにテクノロジーも活用して豊かな学びや教育を多くの子どもたちに届けていけるのか。いまとても興味ある分野です。

 そして、持続可能な幸せと学びをもっと追求していきたい。ウェルビーイング(well-being)という概念があります。意味は身体的、精神的、社会的に良好な状態にあるということ。そういう状態が人間にとって非常に大事なんです。近年では企業経営においても注目されています。従業員一人ひとりの幸福(=心身ともに健康的な状態であること)が、組織や業績にとっても良い方向に働くことが分かっています。学びや教育においても同じで、幸福度が学習効果や成長に影響します。自分や他者の持続可能な幸せをつくる学びを探究し、実現していきたい。

言行一致。縁を大事に使命感に生きる

―最後に岩本さんが人生において大事にしていることは。

岩本:自分のつくろうとしているものと、自分自身の在り方が一致しているか。理想と掲げているものと自分自身の在り方をインテグレート(統合)する。一致させていく。言行一致ですね。

 自分の生み出そうとする価値やプロダクト、たとえば教育プログラムが、日々の自分の生き方と一致しているのか。主体性が大事と言っておいて、自分自身は真に主体性を大事にしているのか。そもそも人に言っておいて、自分自身がまずやっているのか。常に自分に問う。子どもたちに向けて深い探究や多様性の大事さ、協働すること、共創すること、などを伝えています。じゃあ、それらを自分も本気でやっているのか、自分が受容できているのか。子どもたちに偉そうに言っておいて、自分はやっていない、やろうとしていない。そんな教育者にはなりたくない。

 また自分の生き方として、縁を非常に大切にしています。縁を活かす人生でありたい。たまたまの縁でいいんです。でも“たまたま"というのは何も考えてないという意味ではありません。日々の巡り合わせの中で出会う縁。打算がない純粋なものです。僕は自分の人生は使命感によって突き動かされていると思っています。勝手に自分で使命感を感じているだけかもしれませんが(笑)。でも使命感によって生かされていると感じています。どんなつらいことがあっても、これは使命だからしょうがないと自分を納得させている。勝手な使命感かもしれませんが、自分の中で大きなエネルギーの源になっています。

 今、自分以外にこれをできる人間がいない。だから自分がやるしかない。そんな使命感を持って事に当たってきたつもりです。逆に言うと、俺じゃなくてもいいなら、どうぞ他の人がやってくださいと。たとえ自分が好きでも、自分以外の人でもできることなら、もしくは自分より上手くやれる人がいるなら、そこは譲ろうと。そんな思いも常にあります。

 海士町の時もそうでした。まさに使命感。好きでも得意でもなかった。つらい日々の中、なんでやっているのか。幾度となく自分に問い直しました。結論、ここで俺がやらないと未来は変わらない。やむにやまれず。俺がやらねば誰がやる。ここで踏ん張って歴史を変えるぞと。誇大妄想ですが、そんな想いで日々やっていましたね。

 僕はもともと歴史が大好きで、特に明治維新、幕末の時代が大好きなんです。今年はコロナで世界が大変でしたが、こういう乱世の世の方が自分に合っていると思います。自ら修羅場に飛び込んで、世界を変革していく。今こそやらねばという気持ち。徒手空拳の裸一貫から変革していく。まさに草莽崛起(そうもうくっき)の精神です。吉田松陰も大好きです。世田谷にある松陰神社にはよく行きました。山口県の萩の松陰神社にも行きましたね。

―まさに吉田松陰の「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」の精神ですね。本日はインタビューありがとうございました。

(取材・文 明石 智義)

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岩本 悠(いわもと ゆう)プロフィール

1979年、東京都生まれ。大学時代に日本全国をヒッチハイクで周り、2000年には1年間休学してアジア・アフリカ・オセアニアなど20か国で地域開発に従事。帰国後にその体験を『流学日記』として出版し、印税でアフガニスタンに学校を建設。幼小中高の教員免許を取得。卒業後はソニーに入社し、人財育成や社会貢献事業に携わる。2000年に島根県隠岐の離島である海士(あま)町に家族で移住し、隠岐島前高校の魅力化に挑戦。高校を起点とした地域創生のモデルケースとなる。2015年より島根県教育庁と島根県地域振興部において、魅力ある教育による地域創生に従事し、島根県教育魅力化特命官に就任。2016年の日本財団ソーシャルイノベーションフォーラムで最優秀賞を受賞。2017年に一般財団法人地域・教育魅力化プラットフォームを設立。

人間シリーズ② 人間 岩本 悠《後編》

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