ミキハウスグループ 社長 木村 皓一

「いいモノは高く売る」 ミキハウス・木村流“成長哲学”

ミキハウスグループ 社長 木村 皓一

2017年10月、成長企業の経営者約200名が一堂に会する経営者イベント西日本ベンチャー100カンファレンス 2017が開催されました。

「高級子供服」というジャンルを開拓し、いまや世界の百貨店の最高峰のひとつとされるロンドン「ハロッズ」に日系アパレル企業として初出店を果たしたミキハウス。創業者の木村さんは、夫婦2人で独立した当時から、自分の手と足と頭をフルに動かし、失敗してもクヨクヨせず、ひたすら“行動”を繰り返してきたそうです。ミキハウスのパワフルな成長ストーリーをお届けします。

※本記事は INOUZ Timesから転載しており、記事は取材時のものです。

父と衝突し独立起業

経営は情熱がベースにあって成り立つもの。大きな社会の変化のなかにあっても、それは変わらないと私は思っています。

私の父は大阪の船場で婦人服メーカーを営んでいました。社員数は200人くらい。私は長男。後継ぎとして厳しく育てられました。だけど、いざ会社に入ると父とはまったく意見があいませんでした。

大学時代、野村證券でアルバイトしておりまして、父の会社に入る直前まで野村の正社員として働いていました。緊張感のある証券会社の職場と比べ、父の会社はのんびりしていて、ムダが多かった。私は業務の効率化の必要性を訴えました。だけど父は自分のやり方を押しつけてくる。一緒にはやっていけへんなと思い、父の会社を喧嘩同然で辞め、独立しました。26歳のときでした。

その頃、女房は出産間近でした。会社を辞めたいと相談すればどうせ反対されるのはわかっていました。ですから黙って準備をして、女房が実家に帰ったときに「よし、いまや」と、独立を決行しました。

女房に白状したのは3ヵ月後。独立して、何をやろうかなと問屋街などをリサーチし、これからは高級子供服だ、と。それで、結婚前にベビー服のデザインの経験があった女房に事業への協力を求め、父の会社を辞めたことを初めて言いました。

こんな経緯で今日のミキハウスグループの源流となる会社、三起産業が大阪の八尾で生まれました。最初の社員は私と女房の2人きりでした。

なぜ、これからは高級子供服だと思ったのか。当時、「アンアン」「ノンノ」といった女性ファッション誌が相次いで創刊され、近い将来、子供服にもファッション性が求められる時代がやってくる。そんな確信があったんです。

その頃、高級子供服メーカーはすでに数社ありました。同じようなことをやってもかないません。それで私が考えたのはトータルコーディネート。他社がつくっていた高級子供服は、シャツもズボンも、モノはとてもいいんです。だけど、それらを組み合わせて着ると、どうもちぐはぐになってしまう。トータルコーディネートの発想がないからです。

トータルコーディネートされた高級子供服。ここに的を絞り、女房に全身のスタイルをデザインしてもらい、サンプルをつくって営業に出ました。

行く先々で門前払い

行った先は九州。大阪市内は競合がたくさんいて、私と女房の2人きりの会社なんか機動力でかないません。九州なら注文を受けたら運送会社を使って商品を送り、自分はほかの仕事ができる。そう考えました。

まず鹿児島に行きました。商店街を歩いてリサーチして、子供服をあつかっている商店を調べました。13店舗ありました。そのなかで営業したのはトップブランドの子供服をあつかっている1番手のお店だけ。2番手、3番手には営業しない。高級品として売るからには、トップの客層がお買い物する店でなければダメだからです。

目星をつけた店に飛び込み営業をしました。結果はと言うと、店主に「大阪の八尾から来ました。是非、取引いただきたい」。そう言った瞬間に門前払いですわ。

どこに行っても、ずーっと断られ続けました。八代に行って断られ、熊本に行って断られ、三角で門前払いされて、長崎で相手にしてもらえず、博多でも断られた夜、さすがにホテルの部屋で考えました。「なんで、こんだけ門前払いされるんや。なんか自分に問題あるんちゃうか」と。

よくよく考えたら、うまくサンプルを説明できていない、取引したらメリットがあることが説明されていないなど、いろいろな問題点が見えてきました。とにかく、売りたい売りたいの一心で、押し売り同然。門前払いされて当然でした。

あくる日の小倉から全部変えました。まず「アンアン」や「ノンノ」といった女性ファッション誌を広げ、「ご婦人方がファッションに目覚めた。いまは、こういう時代になっていますよね」「ですから私たちは、こんな子供服をつくっています」とトータルコーディネートした子供服をお見せする。すると、ちょうどそのお店では、私が持っていったような商品を探しておられた。すぐにその場でたくさんの注文を出してくれました。

「いいものを安く」はおかしい

私が大切にしている価値観のひとつに、いいモノは高く、ということがあります。みんな、いいモノを安く売ろうとします。それ、おかしいんちゃうかと。付加価値に見合う金額をきちんといただき、それで納得してもらえる商売をせなあかん。お客さんにメリットを感じてもらわなければなりません。

お客さんに提供するメリットのひとつとして、私が重視したのはスピード。お客さんから注文が入るということは、いますぐその商品がほしいからですよね。店に商品がないので一刻も早く手に入れたい。それがお客さんの気持ちです。

創業した当時の1970年頃、注文をもらって九州のお客さんに届けるまでに最短でも5~6日かかるのが普通でした。一番速いのは郵便の速達。小さいモノなら速達で送ることができましたけど、たくさん注文が入ると郵便で送るのはムリ。

陸運業はエリアごとの認可制で、たとえば大阪の認可があるけど九州では認可されていない場合、要所要所のトラックセンターなどで認可をもらっている会社のトラックに荷物を積み替えなければならない。だから、日数がかかっていたんですね。

運送屋さんをあちこち探し、いろいろ調べました。すると、大阪から九州まで、1日で運んでくれる運送会社があることがわかりました。差出場所から送付場所までの認可をもらっている運送会社なら、次の日に届けることが可能なんです。博多なら何々運送、名古屋ならどこどこ運送と、長距離の認可をもらっている運送会社を全部調べ、自分の手で商品を運送会社の営業所に持っていきました。

そうした運送会社は、ヨソとは付加価値が違いますから当然、料金が高い。倍はしました。郵便でも速達と普通郵便では値段が違いますよね。いいモノは高い。高いんだけど、十分に満足できる付加価値があるんです。当社の商品は、注文したら翌日に届く。これがお客さんに喜ばれ、どんどん取引が増えていきました。

ミキハウス代表の木村さん

ミキハウス代表の木村さん

社員ゼロでも新卒採用に1,200万円を投資

いいモノに付加価値をつけ、お客さんに喜んでもらう。創業期からこれらを徹底してきたことが、当社が成長できた理由のひとつだと思います。

人材に投資してきたことも成長できた理由のひとつ。仕事の量が増え、私ひとりでは対応できなくなり、なんとか人を入れたいと思っていました。でも、誰でもいいというわけではなかった。長い目で見たら、いい仲間、優秀な人材に入ってくれないと会社は成長しません。そう考えて、当時の売上の1割に相当する1,200万円を新卒採用活動に投じました。1976年のことです。

大阪のリクルートに行きまして、担当の課長さんに「いま、私と女房以外の社員はゼロなんですけど、とにかく大卒のいい人材を入れたいんです。せめて関関同立の人材がほしい」。こう言いました。すると「木村さん、わかりました。簡単ですよ」と、担当課長さんはこう言いました。

言うほうも言うほうですけど、受けるほうも受けるほうやなと思いました。で、見積書をくれましてね。それが1,200万円。見間違いかと思ってゼロの数を数えましたよ。「これ間違うてない?」と聞いたら「いや、あってますよ。それくらいかかりますよ」と言うんですね。えらいこっちゃですよ。とにかく、苦労してお金を用意しました。

合同説明会に参加して、これは失敗したなと思いました。まず、スライドをつくり、200数十人の学生を前に会社の将来像を説明しました。なにしろ社員はゼロですから、将来像くらいしか言えませんもん。そのあとブースのなかで学生さんと個別に話をします。隣がメガネのパリミキ・メガネさんで、そこは満員。「パリに店を出しました」とか景気のいい話を言っている。それに誘われて学生さんもどんどん集まる。でも、私のところにはだれも来ない。がっくり、ですよ。

でも、落ち込んでいると、リクルートの人が、お昼ご飯が出ますよとかアンケート調査しますとか、なんやかんや言うて学生さんを連れてきてくれました。お昼ご飯食べ終わった後、5人の学生さんが残りました。

結果を出すには行動と実行しかない

するとリクルートの人が「社長、内定出してください」と言うんです。面接もしてないのに、ですよ。私が渋っていると「いや、もう社長、出してくれ」と喰い下がってくる。しゃあないわと思って、残ってくれた学生さんの前に出て行ってこう言いました。「あの、すみません。みなさん、内定出しますんで。よろしくお願いします」。学生さんはポカンとしてました。

その5人はそのまま入社してくれました。優秀でしたわ。この5人がおらへんかったら、いまのミキハウスはなかった。そう思います。

5人のうちの1人は役員として会社に残っています。ほかの4人は独立しています。独立した4人は、もともと会社勤めはイヤやな、いずれ自分でやるんや、という考えをもっていて、独立するまでの様子見、修業先として入社してくれたように思います。

いま、当社が重点としているのはアジア向けのマーケット。日本の人口の減り方、特に子ども人口の減り方はすさまじい。当社が創業した1971年の日本の年間出生数は約200万人でした。それが2016年になると100万人を切り、約97万人にまで減少しました。当社にとってアジア向けマーケットの拡大は喫緊の課題です。そこで2010年に開催された上海万博をきっかけに上海の久光百貨という現地資本の高級百貨店と取引を始めました。おかげさまで大変に売れております。

行動せんことには話にならへんし、実行せんことには結果が出えへん。どこを目指すのか。お客さんを自分でイメージして、イメージしたお客さんに向かって発信する。それがものすごい大事なんじゃないかと思っています。

木村 皓一(きむら こういち)プロフィール

1945年2月、滋賀県生まれ。71年に三起産業株式会社を創業。78年に三起商行株式会社に改称。国内直営店約160店舗をはじめ、パリ、ロンドン、モスクワ、キエフ、ニューヨーク、シンガポール、ジャカルタ、北京、上海など海外13ヵ国の主要都市に45店舗を展開。「MIKI HOUSE」ブランドの高級子供服を製造・販売するミキハウスグループを率いる。

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