株式会社ホープ 代表取締役社長 時津 孝康

設立2年目、預金残高11,551円​。バイト面接も落ちる。そして9年後、上場。

株式会社ホープ 代表取締役社長 時津 孝康

2016年9月、西日本で活躍する成長企業の経営者約300名が一同に会する経営者イベント『西日本ベンチャー100カンファレンス』が開催され、西日本で創業し、IPOを果たした経営者が、その実際を語り合った。

※本記事はINOUZ Timesから転載しており、記事は当時のものです。

自治体領域という荒波のマーケットに人生を賭ける

―片岡

IPOを果された経営者をお招きして、そのリアルなところをお聞きできればと思っております。より突っ込んだ、深いお話を伺えればと思います。

テーマは「IPOを果たした経営者の節抜けした瞬間」。2015年のIPO社数は92社。実際、この裏側にある何倍も準備されてる企業様がいるのがIPOの世界です。そんな中で壁をぶち破り、見事に上場された経営者にお話をお聞きしたいと思います。

―時津

株式会社ホープの時津です。株式会社ホープは本社が福岡にあります。上場は、2016年6月15日に東証マザーズに上場いたしました。

ある程度、ご存じだと思うのですが、福岡市は市長の旗振りのもとスタートアップに相当力を入れております。その上場の一発目として、当社は福岡証券取引所、Q-Boardにも重複上場致しました。

会社の概要としては、私たちPPS事業と呼んでいるものをしております。ちょっと分かり難いですね。これは、機関投資家向けに作った完全なる私たちの造語です(笑)。

かみ砕いて、何をやっているかというと、財源確保支援サービス、営業活動支援サービス、情報プラットフォームサービスです。

財源確保支援サービスは、全国の自治体がクライアントになります。どんなことかと申しますと、自治体の所有している遊休スペースを弊社が在庫リスクを負って買い取るというものです。

自治体が発行している広報紙や自治体のホームページ、、自治体の職員の方の給与明細の裏面のスペースなどを買い取って、地元の企業様に販売をするものです。自治体が所有している遊休スペースを役所の財源に変えていくというのが当社のビジネスモデルでございます。

今回、なぜマザーズに上場できたかというと、別の事業に拡大したからだと思っております。

財源確保支援サービスといわれるコア事業の一本足打法から、次に打った一手が自治体情報誌の制作無償請負というものです。これがあったからこそ今回上場できました。

自治体情報誌の制作無償請負で何をしているかというと、自治体から配られる専門性の高い冊子を全て当社が無料で作って自治体に納品をしています。

完全な代理事業からメディア制作の方にシフトしたというところです。本来、自治体が予算をかけて冊子などを作っていたのですけど、当社が全て無料で寄贈するということで、コスト削減に寄与したというのがこの自治体情報誌の制作無償請負の特徴です。結果的に前期は約100の自治体より、ご契約を頂きました。

財源確保支援サービスおよび自治体情報誌の制作無償請負の両方とも、私たちは広告というものを使って自治体に「新たなお金を稼ぎましょう」「遊休スペースを活用しましょう」という事業を展開しております。

―片岡

ユニークなマーケットで展開されているわけですが、まずは、その事業を選んだ理由から教えていただけますでしょうか。

―時津

僕が会社作ったときは24歳のときでした。大学卒業と同時に会社を作りました。 お金も無いし大学はそんなにいい大学でなかったので、お金も能力も大して無い。そんな僕に奇跡が起こり、サバイブできるとするならば、相当変化が起きるマーケットじゃないと、生き残れないだろうなと思いました。

当社は2005年2月に創業なんですが、2003年、2004年、2005年とずっといつのタイミングで会社を作ろうかなというのを大学生のCPUでひたすら考えておりました。

今もそうですが、当時「自治体は変化が必要」「公務員はこうだと」「こんなことが起こっている」と世論的の風潮がありました。こんな荒波のマーケットだったら、自分の人生を賭けるにはいいかな、と。当時は自治体ビジネスなんて誰も言っていないですが、「この自治体ビジネスに自分の身を投じれば、結構いい風が吹くんじゃなかろうか」という何か“ほわん”とした思いで始めました。

―片岡

学生起業の方々は、わりとすでにあるマーケットに対して、プラスアルファの付加価値でスタートするところが多いのかなと思うんですが、時津さんの場合は、24歳で自治体&広告みたいな真新しいところで踏み切った。ここの腹括り感というのは、どんなものだったのでしょうか。

―時津

いま振り返ると「よくやったな」と自分で思います。だけど、当時の僕からしたら大して失うものがありませんし、半ば勢い的なところがありました。でも、勢いがあっても折れていく人が沢山いたのだろうなと思うんで、その勢いと自分の中での情熱があったので始めることができたと思います。

当時の日本でそんな考え方は無かったかもしれないけど、日本にとって絶対これが必要だというふうに思い、勘違いをしながら、ずっと「ひたすら走っている」ところがありましたね。

当時、同級生の社長とかは、いっぱいいたんです。ホリエモンの時代になったんで、俺もITだ!ベンチャーだ!なんていう社長が何人かいらっしゃいましたけど、今はどのくらい会社として残っているかはわかりませんね。

「これは何なんだろうな」って思いました。経営者の能力とかはさておいて、残った会社はマーケットの捉え方とか仲間を集める力とかが全然違ったんじゃないかなと振り返ってますね。

上場は目指すものではなく、必ずするものと考えていた

―片岡

上場を目指そうと思ったキッカケを教えてください。

―時津

僕は2005年2月創業なので、当時サイバーエージェント藤田さんとかライブドア堀江さんがムチャクチャ全盛の時代でした。会社を作る時に上場するということが、“マスト要件”になっておりました。

「IPOの他に目指すべきものがない」それくらい当時の僕にとってIPOは、すごくキラキラ輝いていたし、相当意欲があったなと思います。

IPOを「しない」とか「する」でなく、「いつかするんだろうな」とずっと大いなる勘違いをして生きてましたね。

―片岡

IPOを志していたのは、卒業されて起業されたときからずっとですか?

―時津

起業する前から「いつかは上場するんだろうな」みたいな感じで思っていましたね。そうしたら芸能人と結婚できるんだと当時思っていましたからね。(会場笑)

―片岡

その後、ライブドアショックなどある中で2000年代後半も考えは変わらず?

―時津

その時は少し考えました。IPOが年に何十社くらいで、コンサルとかいろんな人がくるたびに、「時津さんのところは難しいかもね」と言われました。

その時はさすがに「IPO」なんて言わなかったです。時を待つしかないと思っていました。IPOというのは流れがあるじゃないですか。今は難しいと分かっていたので、次にくるタイミングは絶対に逃さない!ということは強く思っていましたね。

―片岡

結果として上場を果たされましたが、勿論そんな簡単ではないわけです。上場に至るその過程で、諦めそうになった瞬間があり、それをどういう風に乗り越えてきたのかというご経験を、突っ込んでお話いただきたいと思います。

―時津

僕らは自治体がクライアントになるので、まず自治体と契約しないといけないんです。当時、有限会社ホープ・キャピタルと契約をしてくれる自治体というのは1年8か月の間一切現れませんでした。

よくわからないお兄ちゃんが、なんか提案しに来ているなと、ほとんどあしらわれてしまいました。

1年8か月、売上が全く上がらず、ドンドンお金が無くなっていくんで、相当怖かったです。

僕、身長1m81cm、体重72.5kgで、ベンチプレス90kg上がるんですけど、当時は体重49.8kgまで落ちたことがあります。ストレスで食べられずに。それでも危ないことになっているんだということに気づかなかったです。そういう意味でいうと、経営者というのはドMなのかも知れないですけど。

その1年8か月の間に、預金残高が11,551円になったことがありました。普通に考えたら倒産ですよね。絶対に銀行は貸してくれないです。両親からも援助はしないと言われていたため、相当苦しかったです。

―片岡

当時は事業をやられながらアルバイトもされていたんですよね?その中でコンビニのバイトを落ちたっていうエピソードが…

―時津

そうです!僕は会社起こして、唯一泣いたことあるエピソードです。上場しても泣かなかったんですけれども、その時だけは泣きました。

お金がなくて、コンビニに面接に行ったんです。そしたら、“瞬間的”に落とされたんですよ。さすがにそれを受け入れることができなくて、泣きました。泣きながら帰りました(会場笑)。きつかったです。あの時は。

僕は楽観的な性格なんですが、その時はじめて自分の人生で“死”というものを、意識しました。「あぁ、俺このままダンプにはねられて死ぬのかも。親は悲しむだろうけど世の中は誰も気付かないし、“ありんこ”みたいな人生だなー」と思って、一瞬“死”を意識したのを覚えていますね。

たった1つの初契約が風の流れを一気に変えた

―片岡

その後ぐっと“節抜けしたタイミング”その時のお話を頂きたいのですが。

―時津

今でも、全く節抜けしていないなと思うのですが、振り返って唯一挙げるとすると、僕の場合は一番最初に自治体が契約をしてくれた1年8か月後つまり2006年10月4日の初契約の瞬間です。そこがポイントだったと思います。

そこから、隣接した自治体というのは、一斉に当社に電話をかけてきてくれるようになりました。

正直、この1年8か月、うちの会社の電話が鳴ったのは、母からの電話くらいしかありませんでした。「お米大丈夫?」とか。何故かというと、僕はケータイ掛かってきても出ないんです。で、いきなり会社に電話が掛かってきて、「お客さんかな?」と意気揚々と出たら、「母ちゃんかよ…」ということがありました(会場笑)。

最初に自治体が契約をしてくれたのがきっかけで、まさにボーリングのピンが倒れるように、少しずつ自治体が当社と契約してくれました。これが、一番大きいタイミングかなと思います。

―片岡

上場で何が変わったか教えてください。

―時津

上場をして、リアルに可能性が広がり組織が強くなったなと思います。上場した後に会える人たちが圧倒的に変わりました。組織が強くなったというのは、僕が変わってきているのかもしれません。

僕は感覚型の人間なので、感覚で人を信用するしないを判断したりしていました。上場し、次は社員数を300名まで延ばしたいと思っているので、いろんな制度や仕組みを作り始めました。そうしたことで、かなり組織が強くなってきました。

制度や仕組みを作り始めることで、社内の新陳代謝が進み始めました。古い社員とか昔からいるメンバー、付いて来れなくなったメンバーなどが辞めるようになってきています。こんな経験は昔の感覚とは、大分変ってきたかなと思っています。上場したからこそ、そういうふうになれたのかなと感じています。

昔からの創業メンバーと離別するとか、これの良し悪しはまた別の議論になると思います。

僕が舵を切っていくまでは、人材のトップラインを伸ばしていく、世の中に評価される対象を作りたいと、思っています。100名や1000名に影響を及ぼせる会社を作りたいと思っているので、人材に対する考え方が徐々に変わってきたかなと思っています。

―片岡

上場後は採用もすごくしやすくなると聞きます。特に新卒と中途で違いについて教えてください。

―時津

いま社員は100名ほどいます。そのうちの65%が新卒です。上場した際に、お祝いのお花をたくさん頂き、エントランスに並べていました。上場したんだぞと鼻高々だったんですけども、新卒には「え?移転したんですか?」と、全く意味がなかったです(会場笑)。

ただ、中途採用には影響がありました。中途採用は今までだったら応募がなかったよう会社さんに勤めている人達から弊社に応募が来たりしているので、新卒と中途に対するインパクトは大分違ったなと思っています。

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