あの経営者のエネルギーの源泉

【まとめ】生死を彷徨い大成した経営者

あの経営者のエネルギーの源泉

 大成する経営者になるためには 「“3T(投獄・大病・倒産)” が必要」と言われている。たとえば、ソフトバンク創業者の孫正義(敬称略、以下同)は、創業2年目にして慢性肝炎で「余命5年」との宣告を受けた。その後約3年半のあいだ入退院を繰り返す中、「なぜ命を削ってまで会社にいくのか」を自問したという。

 大成した経営者にとって、生死を彷徨う経験がひとつの転機になることが往々にしてある。そこで今回は大病を患ったり、逮捕され身柄を拘束されたり、はたまた戦地で死線をくぐり抜けるなど、壮絶な経験から這い上がり大成した経営者をまとめてみた。

京セラ 稲盛和夫

 13歳で肺浸潤という結核初期の病を患い、また空襲で実家が焼失する経験をする。闘病生活の際に読んだ谷口雅春著『生命の実相』に衝撃を受け、「心のあり方が現象として現れる」 という考え方が形成されたという。

 「情熱は、成功の源となるものだ。成功させようとする意思や熱意、そして情熱が強ければ強いほど、成功への確率は高い。強い思い、情熱とは、寝ても覚めても、24時間、そのことを考えている状態だ」。そう語る根っこの考え方にも「あの病床での日々」が影響しているのではないだろうか。

パナソニック 松下幸之助

 19歳で肺尖カタルという病を患う。その後、50歳くらいまでは養生しながら松下電器産業(現:パナソニック)を経営していたという。ちなみに、8人兄弟の末っ子に生まれた松下氏は、生前に父母と兄弟5人を亡くしているが、その死因のほとんどが肺結核だったという。

ヤマトホールディングス 小倉昌男

 父が経営する大和運輸(現:ヤマトホールディングス)に入社すると、半年で肺結核を患い、4年間の闘病生活を送った。小倉は東京大学経済学部に在学中に休学して入隊した経験もあり、その戦争体験からも大きく影響を受けている。

 見習士官だった当時、何百人分もの炊事場とトイレを、資材も何もない状態から2日間で作るよう命令された小倉。さすがに困り果てたが、竹や河原の石を使ってなんとか作り上げ、「どんなことでもやればできる」ということを身をもって実感したという。

日清食品 安藤百福

 安藤が30代後半の頃、GHQに脱税の嫌疑をかけられ、巣鴨拘置所に収監された。当時雇っていた若手社員に奨学金を支給していたが、その奨学金も「源泉徴収して納税すべき」とみなされ、それをしていなかったことで処罰を受ける。

 裁判を起こしたが、処罰の取り消しは認められなかった。最終的に「訴えを取り下げれば釈放する」とGHQ側から持ちかけられ、家族の身を案じた安藤はそれを受け入れ、釈放された。

 また安藤は、日清食品のほかにもさまざまな会社を立ち上げている。過去には軍用機用のエンジン部品を製造する会社を経営していたが、ここでも壮絶な経験をする。

 ある日、国から支給された資材がなくなり、当時絶対的な権力を持つ憲兵隊の取り調べを受けることになる。憲兵から棍棒で殴られるなどの拷問を受けたうえ、わずかな食事しか与えられなかったため、獄中で「食の大切さ」を痛感。その経験から『カップヌードル』をはじめ革新的な食文化を創り上げるに至った。

ダイエー 中内功

 中内は20代初めの頃に第二次世界大戦に従軍。フィリピンのルソン島では飢餓状態に陥り、敵から手榴弾を受け瀕死の状態になるが、そのとき「家族とすき焼きを食べる光景が浮かんだ」という。

 その戦争体験が原点となり、ダイエーでは消費者目線の「For the Customers よい品をどんどん安く消費者に提供する」という企業理念を掲げ、流通革命による価格破壊で一世を風靡した。

東邦電力(※九州電力の前身) 松永安左エ門

 1920年代後半に民間主導の電力会社再編を主張し、九州から関西、東京に至るまで全国の電力会社を次々と合併し、傘下に収めた松永安左エ門。「電力王」「電力の鬼」と称された松永だが、16歳の時に真性コレラを患っている。

シャープ 早川徳次

 幼少期に養子に出され、また養母が亡くなったことで食事も満足に与えられない過酷な幼少期を過ごす。30代前後には激務による過労で倒れるも、なんとか命拾いした。また1923年に関東大震災で被災し、2人の子供を亡くす。重症だった妻も2か月後に亡くなり、工場も焼け落ちるなど人生のどん底を味わう。

 過去の辛い経験から「事業の第一目的は社会への奉仕」とし、幼少期に助けられた盲目の女性への感謝から、失明軍人が働く「早川電機分工場」も開設している。同工場には世界的大富豪で慈善活動家のジョン・ロックフェラー2世も視察に訪れたという。

アシックス 鬼塚喜八郎

 30代半ばに肺結核を患う。1年ほどで治癒するも再発。闘病生活を続けた。医者から「絶対安静」と言われながらも、病床に社員を呼び寄せ、指示を送ったという。

 実は鬼塚は旧姓の坂口から改姓しているが、これには戦争体験が大きく関わっている。高校を卒業して軍隊に入隊した鬼塚は、ビルマ(現:ミャンマー)作戦に従軍することになった。

 しかし出発3日前にして、なぜか鬼塚だけが日本に残ることになったのだ。その際、戦友から「神戸に身寄りのない鬼塚という老夫婦がおり、もし自分が戻らなければ面倒を見てくれないか」と頼まれた。その後、戦友の死を知った鬼塚は約束通り老夫婦を養い、自らも鬼塚姓となる。

 戦後、神戸で暮らした鬼塚は、そこで売春や麻薬に溺れる青少年たちを目の当たりにし、「このままでは、あの死んでいった戦友たちに申し訳ない。これからの新しい日本の建設のために、俺は次代を担う青少年の教育に一生を捧げよう!」と決意したという。そして青少年の健全な育成のためにスポーツシューズを作り始めたのだ。

ソフトバンク 孫正義

 創業2年目にして慢性肝炎を発症。病床で、「なぜ命を削って仕事にいくのか」を自問したという。「自分にとって幸せとは何か」を考え抜いた末に、「人々の笑顔のために生きたい」と心の底から思い、今日に至るまでソフトバンクを世界的企業に成長させている。

ケーズデンキ 加藤馨

 1939年、満州国とモンゴル人民共和国の国境線を巡って、ソビエト連邦(当時)と争った「ノモンハン事件」に従軍。その後もパプアニューギニアで行われた「ラバウルの戦い」にも従軍し、生還している。

 ケーズデンキは「 “お客様第一” の実現のための従業員第一」をグループ理念に掲げており、社員を無理に働かせないようノルマなども設けていない。こういった経営方針には、国のために身を捧げるしかなかった戦争体験への教訓が影響しているのかもしれない。

ワコール 塚本幸一

 1945年、第二次世界大戦時、ビルマ(現:ミャンマー)戦線に従軍。作戦に参加した日本兵の殆どが死亡し、「史上最悪の作戦」 と言われたインパール作戦から生還している。

 ワコールは「世界中の女性が自分らしい美しさを表現し、いきいきと生きられる社会づくりに貢献する」ことを経営目標に掲げている。これは戦争体験を経て、「女性が美しいことが平和な社会の証」 と考えた塚本の理念に基づいているのだろう。

伊那食品工業 塚越寛

 17歳で肺結核を患い、高校を中退して3年間の闘病生活を送る。その後、地元の木材会社に入社すると、翌年に関連会社の伊那食品工業株式会社に入社。21歳にして、社長代行として当時低迷していた同社の経営の立て直しに奔走。再建を果たし、その後、右肩上がりの増収増益を達成し続けている。

アパホテル 元谷芙美子

 栄養不足のため未熟児として生まれ、周囲からは「間もなく死ぬだろう」と言われていた。また、1歳のときに福井地震に被災し、実家が倒壊。運よく観音開きになっていた仏壇に守られて九死に一生を得た。1歳までに2回死にかけた経験から、「すでに一生分の厄が落ちた」と語り、女性でありながら何事にも臆さない胆力を身につけた。

まとめ

 大成した経営者の知られざる過去を知ると、その圧倒的なバイタリティにも頷けるだろう。生死を彷徨うほどの経験によって、その人物の決意が固まり、困難にぶち当たった時にも自らを鼓舞するエネルギーとなっている。

 また、自ら経験をせずとも、例えば、阪神・淡路大震災で叔父叔母が亡くなったことを受け、起業を決意した楽天の三木谷浩史のように、身近な人物に起こった出来事も、その人にある種の決意を促すことがある。

 なかなか望んで得られる経験ではないだろうが、壮絶な経験からくる大きなエネルギーが人間を強くするのだろう。

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