当初断ろうかと思ったDeNAへの投資
―NTVPはDeNAに創業投資して大きなキャピタルゲインを得ましたが、そもそも創業者の南場さんとはどのようにして出会ったんですか?
村口:99年当時、私は創業支援施設のインキュベーション事業もやっていて、その施設にインターネット回線を引こうと、投資先でもあったインターネット接続会社リムネットCOOの紺屋さんに相談したんです。そしたら、紺屋さんから、今度自分の奥さんが起業するから、いちど相談に乗ってほしいと逆に頼まれ、その奥さんというのが南場さんでした。
99年7月に池上線千鳥町駅前の小さな喫茶店のカウンター席で南場さんに初めて会いました。その場で南場さんからネットオークション「ビッダーズ」の構想を聞きました。今だから正直に話すと、南場さんの第一印象はマッキンゼーのエリートコンサルタントそのもの。スーパーコンサルタントの匂いがプンプンした(笑)。正直これはあかんなと。話す内容もコンサルっぽい絵空事ばかり。経営実務にも技術にも詳しくなさそうで、その場で軽くダメ出しして別れました。でも、すぐに南場さんから連絡が来て、ダメ出ししてもらったところを修正したから、また私に会いたいと。私としては、これは困ったなと(笑)。どうやって投資の話を断ろうかなと。今から考えたらあり得ない話ですが、最初は投資の話を断ろうと思っていました。でも、だんだんと彼女の熱心さが、これは尋常じゃないなと思うようになった。もう訳がわからないくらいしつこかった。
何回ダメ出ししても、すぐに修正して、また電話がかかってくる。ふつうなら数日かかるようなものでも、たった十数時間で修正して、何回もしつこく返ってくる。これは普通じゃないなと。経営実務やインターネットの技術に詳しいわけではないけど、物事を実現しようとするエネルギーがものすごい。その覚悟は尋常じゃないなと。まさに連日連夜にわたって私に繰り返し連絡が来ましたから。このしつこさと覚悟、そして修正の速さ。これはひとつの成功するパターンだと次第に思うようになりました。この人なら戦略コンサル出身でも、起業家として成功するんじゃないか。コンサル的な弱みも、南場さんなら自己革新で克服するんじゃないかと思いました。
後日、渋谷NHK付近のマンションに当時のDeNAの事務所があり、そのすぐ近くのケーキ屋で創業メンバーの川田さん、茂岩さんと会いました。いろいろとその場で話していく中で、じゃあNTVPとして投資しますよ、という話になった。こうしてDeNAに創業投資することになりました。
―ちなみに村口さんが最初に感じたコンサル的な弱さとは、具体的にはどういったものですか?
村口:コンサルタントというのは、ビジネスを自分の知っている既知のモデルの中でしか判断しないものです。すでに答えがあり、その答えにどうリアルなビジネスを当てはめるか。そういう思考回路です。しかし、既存事業の業務効率化ならまだしも、ベンチャーの世界でこれは通用しません。
ベンチャー経営のほとんどは予測不可能であり、未知の出来事が連発する。経営者はその未知のことに対応して乗り越えていかなくてはいけない。しかも物凄いスピードで複数のことを同時進行で対処していかなければいけない。これがベンチャーの世界です。優秀なコンサルタントが、そのまま優秀なベンチャー経営者とはなり得ないし、通常は真逆の性質なんです。
―南場さんは幾多の修羅場を乗り越えて、本物のベンチャー経営者となったわけですね。
村口:南場さんは創業から長い間、文字通り経営の修羅場をかいくぐり、そのたびに経営者として強くなっていった。99年9月、南場さんに初めて会ってから2か月目にDeNAへの投資を正式に決定しました。ただ実際に出資を実行する前に、いきなり危機に見舞われた。外注したはずのシステムが、ビッダーズのカットオーバーが1か月後なのに全然機能していないことが判明。ちょうどソネットとリクルートが出資作業中でもありました。あれは忘れもしない10月23日土曜日の朝、南場さんから連絡がありました。外注したはずのシステムが全然できていないと。その時の南場さんは私に報告メールを打とうにも手が震えてなかなか打てなかったと後日聞きました。すぐに私の方でもつてを使ってITシステムに強い人に応援を依頼し、なんとかこの危機は乗り越えることができました。
その後も、ビッダーズはヤフオクに先を越され、背中が見えないくらい引き離されてしまった。「おいくら」という中古品市場を狙ったりしましたが、時すでに遅し、毎月の赤字は膨らむばかり。追い打ちをかけるように2000年にITバブルが崩壊。DeNAも経営危機に直面しました。2001年3月にはあと数か月で資金が枯渇する状態にまでなり、追加の資金調達に動くことに。しかし、うち以外のVCからは相手にされず、けっきょくNTVPとソネットからの追加出資で何とかしのぎました。その後は這い上がるように様々な施策を打ち続け、その年の12月には創業来初の単月黒字化に成功。2004年には携帯用オークション「モバオク」をリリース。そして2005年2月に東証マザーズに晴れてIPOを果たすことができました。その後の「モバゲータウン」の大ヒット、横浜ベイスターズの買収などの快進撃はみなさんご存じの通りです。
南場さんはIPOしたほうが伸びるタイプ
―苦難を経て、まさに自己革新してIPOにまで漕ぎつけたわけですね。
村口:ただ、当時の南場さんはIPOに対して慎重でした。でも私は間違いなく南場さんはIPOしたほうが伸びる経営者だと思った。未上場でボチボチやっていくような経営者ではない。DeNAも南場さんもIPOしたほうが断然伸びると確信していました。私が投資家だからキャピタルゲイン欲しさにそう思ったのではなく本心で思っていました。私はIPOを南場さんに強く勧めました。
―南場さんがIPOしたほうが伸びるタイプとは、どうしてそう思ったのですか?
村口:南場さんはすごいエネルギーがあり、柔軟力、実行力がある。そして何より育ちがいいというか、人として上品だなと直感的に思っていました。こういう上品な人は、IPOしてパブリックカンパニーとしてやっていったほうが絶対にもっと伸びる。公私混同がちな海千山千の未上場創業オーナー経営者タイプではなく、資本市場の中で公私を分けて大きく飛躍するプロフェッショナル経営者タイプだと。
四国徳島で商売人家系に生まれる
―なるほど。話は変わりますが、村口さんの生い立ちを教えてもらえますか。たしか生まれは徳島ですよね。
村口:生まれは徳島県海部郡海南町(現:海陽町)で、海亀が産卵しにくる美しい海辺の町で生まれ育ちました。うちの家は先祖代々、商売人の家で、曽祖父が村口伊勢蔵(いせぞう)といって、なかなか才気ある人で、当時の満州(現:中国東北部)開発に刺激を受け色んなことにチャレンジしたと聞いています。ベンチャー精神あふれる企画屋さんみたいな人だったそうです。
私がいちばん影響を受けたのが祖父の村口竹次郎(たけじろう)。実直な性格で、戦前に「村口竹次郎商店」を立ち上げ、漁網の製糸業を営み、私が生まれた頃には精米業や精麦業、養鶏業にも進出。神戸や大阪に出向いて、丸紅なんかと取引をしたなんて話を小さい頃に聞きました。また竹次郎は電動の製糸装置を開発して、当時では珍しく特許を取得。先進的な人だったようです。
うちの一族の中には、祖父の甥にあたる丸本昌男という阿波尾鶏ブランドを一代で作った方もいます。私が小学生の頃、昌男さんは26歳の若さで父親から借りた10万円と自らの2万円を元手に鶏肉店を創業。その後、多くの親戚が事業を手伝い、半世紀後の今では総合食品メーカー「丸本」として従業員600名超、年商120億円超の企業にまで発展しました。
そんな一族の中で生まれ育ったので、私の中で「一度きりの人生、世に出るなら普通のサラリーマンで終わるのではなく、いつか自分も歴史に残るようなことを成し遂げたい」と思うようになりました。
医学部受験で2浪
―大学は慶応の経済学部に進まれました。その当時は将来事業家になるつもりだったんですか?
村口:いえ、第一志望は医学部でした。祖父の竹次郎の影響もあって、私は理系に進み、将来は医者になろうと考えていました。徳島の田舎育ちの私にとって理系の立派な職業といったら医者くらいしか思いつかなかった(笑)。竹次郎は「大学なんて行かなくていい。はやく実業の世界に入れ」と言いましたが、私は東京に出て、広い世界を見たかった。
けっきょく現役で医学部には受からず、浪人することに。でも、1浪しても落ちてしまい、もう完全に落ちこぼれ。2浪目は東京に行けば何かあるかもしれないと漠然と思い、徳島から飛び出して四ツ谷にある駿台予備校に通いました。そして、2浪目でも医学部に受からず、挫折。けっきょく練習のつもりで受けた慶応の経済学部に合格したので、そこに入学することにしたんです。ただ母は、その合格を心から喜んでくれた。「合格した」と四ツ谷駅前の公衆電話から電話したら、「ありがとう、ありがとう」と泣きながら喜んでくれた。私の母は、自分の父(村口の祖父)を11歳の時に南海大地震の大津波(1946年)で亡くし、母子家庭で苦労して育ちました。直系一族の中で初めて私が大学に進学したので、心底うれしかったのだと思います。
人生何が転機になるか分かりません。もし医学部に入っていたら、VCになっていなかったでしょう。また当時、受験勉強で物理や化学をしっかり勉強したのは、いまのVCの仕事に非常に役立っています。
シェイクスピアを通して“人間”と向き合う
―どんな学生生活でしたか?
村口:もともと経済学が勉強したかったわけではないので、当然大学の授業にも身が入らず、自堕落な生活を過ごしました。
そんな時、ちょうど徳島の高校で同期だった友人が慶応シェイクスピア研究会に所属していて、彼に引きずり込まれるようにそのサークルに入会しました。最初は言われるがまま参加したんですが、徐々にシェイクスピアの深さ、その魅力の虜になりました。衝撃的でした。まさに“人間"と向き合う行為そのものだったんです。
大学2年生の時には、演出をやらせてくれと自ら立候補して、シェイクスピアの芝居「テンペスト」の演出を担当。六本木の自由劇場で上演するまでの6か月間は、私の人生にとって貴重な経験となりました。「テンペスト」を1000回くらいは読み込み、シェイクスピアの描く究極の人間ドラマ、そのエネルギーの深さと無限の多様性に魅せられました。
芝居の中で登場人物が人殺しもする。演出する側として、そんな人を殺す側の立場にも立って物事を考えなければいけない。異常な体験でしたね。演出をするうえで、どんな人間も肯定的に理解せざるを得ない。演出を通して、人間の本質に触れるというか、まさに“人間"というものに向き合わざるを得なかった。
またこの半年間にわたる劇の演出を通して、ゼロから何かを形にするとは、ここまで大変なのかと、そしてここまで学びの深いものなのかと、そういうことを思い知らされた。演出家として、劇のテーマを定め、物語を紡いでいく。多くのスタッフを束ね、上演成功という一つの目標に向かってみんなで突き進む。部員同士の不仲、その調整などに頭を抱えることも多かった。夏に長野で合宿を行い、部員一人一人の頭の中に、演出家として私が描いた想いを共有してもらう。この一連の過酷なプロセスを通して、経営能力に近いものを得たと思います。今から考えるとベンチャー経営を疑似体験したような感覚でしたね。
シェイクスピアに巡り会えたのは、私の人生の中で本当に大きかった。なぜ時を越え、国を越えて、作品が残り続けるのか。ほとんどの事物が泡のように消えていく中、不朽の名作として残り続け、今なお輝きを失っていない。そんな偉大なシェイクスピアを自分の中に取り込みたかった。田舎から出てきて、東京という大都会、そして慶應に圧倒された私は、自らの中にシェイクスピアの偉大さを取り込みたかったんです。
自分の人生もシェイクスピアのように壮大なスケールで、歴史に関わるような人生を送りたい。また、祖父の竹次郎が高校3年生の時に亡くなり、その祖父の背中を追い越せるような人生を歩みたいとも思いました。
だがシェイクスピアにはまり過ぎて、ろくに授業も出ず、けっきょく留年。もう2浪1留の3年遅れの完全な親不孝者です(笑)。まだ何者でもない自分に焦りを感じながら、このまま劇の演出をして一生食べていこうかなとも考えました。そんな矢先、あるサークルの先輩から「芝居では食べていけないぞ」と諭され、やっぱりそうだよなと。いちおう大学は卒業しないといけないなと、気を取り直して経済学の勉強をすることにしました。大学2年生の冬のことです。2か月ほど広尾にある都立中央図書館に缶詰になり、集中して経済学の勉強をしました。経済学の教科書を3、4冊ほど徹底的に読み込みました。
そうすると当初の私の予想に反して、経済学がめちゃくちゃ面白かった(笑)。経済学とはこんなにも面白いものなのかと。シェイクスピアが人間学なら、経済学は“人間行動の経済学的学問"なのだと分かりました。私はもともと理系だったので大学受験で数学をみっちりやってきた。その学んだ数式を実際の経済活動に当てはめ、モデル化したのが経済学なんだと、頭の中でシンクロナイズしたんです。
同時に私は演出を通して行間を読む読書力を身につけていました。世界経済史を読み解く中、当時の冷戦は共産主義の終焉とともに終わることを強く直感しました。計画経済は必ず破綻するだろうと。これは歴史の必然だと。そして共産主義が終焉したら、ますます資本主義全盛の時代に入り、世の中は新しいビジネスチャンスにあふれ、新しいベンチャー企業がどんどん興る時代になる。そう予想したんです。
村口:その後、数理・計量地理学の権威だった高橋潤二郎教授(のちに慶応SFC設立、森ビル特別顧問)のゼミに入り、コンピューターを使って地表のデータ化とモデル化を学びました。ここで初めてコンピューターと出会いました。
そして、忘れもしない大学3年生のある日、高橋教授が「アメリカのシリコンバレーにはベンチャーキャピタリストという職業がある」と私に紹介してくれたんです。教授からベンチャーキャピタリストの仕事内容を聞くうち、私の鼓動は高鳴りました。
これから世の中はコンピューターによってデジタル化され、インタラクティブな情報化社会が到来する。でも、シェイクスピアの人間学に触れていた私は、世の中の実際の物事はそう単純にデジタル化できないことを肌で感じていた。人間とはオーガニック(有機的)なものであり、あまりに多種多様であること。人間を単純な消費関数でモデル化はできない。だからこそ、このデジタル情報革命によって世の中に多種多様な変化が起こる。近い将来には単純な計画経済の共産主義は終焉を迎え、世界はオーガニックな資本主義全盛の時代に入り、その多種多様な変化の数はさらに増加する。
グローバルに多種多様な変化が膨大に起こる。つまり、それだけ多くのビジネスチャンスに生まれる。そのビジネスチャンスに対して、ゼロから事業を起こす資金を提供するのがベンチャーキャピタリスト。これほど魅力的な職業はないのではないか。
劇をゼロから演出してきた私にとって、起業家とともにゼロから新しい事業を世の中に生み出していくというのも、非常に自分に向いていると感じました。私の頭の中で、今まで一見関係なかったと思っていたものが一気にシンクロナイズし、まさに天職を見つけた瞬間でした。
早速、大学の生協に行って「シリコンバレーアドベンチャー」というアメリカの翻訳本を購入。その本に「シリコンバレーのサンドヒルロード3000番地にVCの事務所が集まっている」という文章を目にしました。そうとなれば、ぜひ現地に行ってみるしかない。ちょうど1983年の話です。インターネットも携帯電話も無い時代。VCの情報なんて皆無だった。
すぐに自動車教習所に行き免許を取得。大学の生協で名刺を作り、格安航空チケットを買い、大学4年生の私はアメリカのシリコンバレーへと旅立ちました。シリコンバレーがあるサンフランシスコ空港に着くと、外は暴風雨の大嵐。手荒い洗礼を受けながらも、逆に胸は高ぶりました。空港近くのハーツレンタカーで車を借り、フリモントにある友人宅へと車を走らせました。翌日からその友人宅をベースにして、毎日アポ無しドアノックの日々。私のつたない受験英語を駆使し、日本から来た大学生であること、将来自分もベンチャーキャピタリストになりたいことなどを必死に話しました。そうすると何人かのベンチャーキャピタリストが私の話を聞いてくれたんです。日本からわざわざ大学生がアポ無しで訪ねてくるなんて珍しくて興味を持ってくれたのかもしれません。
今でも覚えているのが、私が「What is most important as Venture capitalist ?ベンチャーキャピタリストにとって何が一番重要なのか?」と聞いたら、当時私が聞き取れた言葉で非常に印象に残ったのが、Early bird(早起き鳥)とHuman understanding(人間理解)という言葉。Early birdとは、周りよりも早く動く人のこと。Human understandingとは人間に対する理解。シェイクスピアで“人間"と向き合った私にとって、このHuman understandingという言葉に強く反応しました。すかさず私が「I had directed Shakespeare drama at Keio University.私は大学でシェイクスピア劇の演出をしていた」と言うと、そのキャピタリストは「That's it!まさにそれだよ!」と返してくれた。感激しましたね。VCの本質は人間理解であり、シェイクスピアの演出とVCの世界は、やはり通底している。
スタートアップの世界は、何もないゼロの状態から試行錯誤を繰り返しながらオーガニック(有機的)に事業と組織を立ち上げていく。これはシェイクスピアの演出と全く同じでもある。一つ一つ丁寧に力強く編み上げていくしかない。自分がシェイクスピアの演出に渾身のエネルギーを注いだのと同じくらい、すべてを犠牲にして事業の立ち上げをやればスタートアップの世界でも通用するのではないか。そんな自信が私の中に芽生えました。これならやれる。しかも自分がやりたいことであり、やるべきことだと確信しました。こうして大学卒業後、新卒でジャフコに入社し、私のVC人生がスタートしたわけです。
―なるほど。本日は貴重なお時間、かつ長丁場でのインタビューありがとうございました。
(取材・文 明石 智義)
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