≪前編≫
インタビュー前編は、村口が日本最大のベンチャーキャピタル「ジャフコ」に新卒入社し、組織人失格とまで言われながら奮闘した話から始まる。その後、ベンチャー不毛の地と呼ばれた北海道でベンチャー黄金時代を築き、シリコンバレーのキャピタリストから言われたある言葉をきっかけに、イスラエル視察後に独立を果たす。出資者集めでは、あの伝説的起業家との邂逅や日本人の本質に触れる体験をする。人間村口和孝の生き様に肉薄する。
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組織人失格のサラリーマン時代
―村口さんのベンチャーキャピタリスト(以下、VC)としてのキャリアは、新卒で当時まだ無名だった日本合同ファイナンス(現:ジャフコ。以下、ジャフコ)に入社したところからですよね。
村口:そうですね。ジャフコに新卒入社したのが私のVCとしてのキャリアのスタートです。でもジャフコでは私の理想とするVCのスタイルと組織人として求められる役割のズレに葛藤し、だいぶ苦労しました。
誤解を恐れずに言うと、本来VCというのは組織分業に適さない。機能分化、職位分化して組織分業でやるには適さないんです。でも当時のジャフコはVCをサラリーマン組織としてやっていた。自分の理想とするVCの在り方と現実とのギャップで大いに悩みました。
私の理想としては自分の自己責任のもと投資をして、投資先にハンズオン支援(投資先企業の経営に直接参画)をし、イグジット(株式上場またはM&Aによる投資回収)までする、それを個人として一気通貫でやりたかった。しかもIPO(株式上場)できる確率の高いレイターステージ投資ではなく、まだ海千山千の状態のシードステージにリスクを取って投資をしたかった。でも当時、組織として求められていたのは、社歴があって数億円の利益が出ている優良未上場案件でした。もちろん新卒でジャフコに入って、私みたいな扱いづらい社員を育ててくれて、今でも本当に感謝しています。ただこの矛盾の中でその後も長く悩み続けました。
今でも深く印象に残っているのが、北海道ジャフコに出向していた時の案件で、介護サービスのジャパンケアサービス。当時、同社の本業売上は数百万円しかなかった。時代はまさに平成バブルの頂点のとき。売上100億円以上の案件が当たり前の時代。そんな時代にそんな小さなシードステージ案件を私は投資審査会に提出。普通に考えたら、投資は許可されない。だから私は調べに調べて40枚もの投資推薦書を作成し、満を持して投資審査会に提出しました。介護業界の可能性、同社のビジネスモデルの優位性などを書き連ねた推薦書の作成に1年もかけました。
当日の投資審査会は大荒れになりました。こんな小さな投資案件、しかもシード投資。村口はいったい何を考えているのかと。40枚もの投資推薦書も異例でした。
私はなぜ同社に投資すべきなのかを力説。勢い余って“そもそもジャフコの審査活動がまったくなっていない。たった2、3枚の推薦書でいったい何が分かるのか"と会社批判まで始めてしまった(笑)。そうすると投資担当の常務が怒り出した。ついには「村口!あやまれ!」と大声で怒鳴られ、私も私でわざと大きな声で「すみませんでした!!」と返す始末。けっきょくその日は前代未聞の“意見差し控え"という判定となり、最終投資審査会に諮られることになりました。
その最終投資役員会でも、私に説得された担当常務は熱弁を奮い、投資の必要性を必死に訴え、ついに当時の副社長が一言、「もうええよ」と。そのとき同席した誰もがその副社長の放った「もうええよ」がどういう意味なのか正確に理解できませんでした。「もうええよ」とは、「もうそれ以上話さなくていい、投資OKだよ」なのか、「もうそれ以上話すな、その投資の話は終わりだ」なのか、その場ではみんな判別がつかない。担当常務としては副社長がOKという返答だと勝手に解釈して、その場で投資許可を得ることに成功しました。その後、ジャパンケアサービスは私の期待通り、大きく成長して97年10月に無事にIPOを果たしました。一時は私のそんな立ち振る舞いが高じて、村口は組織人失格とまで言われました(笑)。
北海道ベンチャー黄金時代を築く
―新卒3年目で北海道ジャフコに出向し、7年半も北海道でベンチャー投資していたと聞きました。
村口:当初は北海道ジャフコに1年半の出向予定でした。当時の北海道はベンチャー不毛の地と呼ばれ、13年間もIPOゼロだった。でも私は逆に北海道に可能性を感じました。不毛の地ではなく、可能性の地なのではないかと。この際北海道に腰をおろして徹底的に優良企業を発掘してやろうと。ベンチャー不毛の地の北海道にこそ逆にチャンスがあるんじゃないか。人と同じことをやっても歴史は変わらない。みんなが無理だというところにこそ、歴史を変えるチャンスがある。そんな意気込みでした。
しかも北海道はベンチャー不毛の地と言われても、人口500万人もいる。きっと広大な北海道のどこかに未来の上場企業があるはずだ。そう信じて企業の発掘を精力的に行いました。そうして発掘したのが帯広の優良食品スーパー福原(現:アークス)、建設機械レンタルの共成レンテム、札幌のハウスメーカーの松本建工、土屋ホーム、薬局のアインファーマシーズなどです。これらの企業は経営者が明確な目標を持ち、差別化されたビジネスモデルで有望な市場で事業展開していました。その後、これらの企業は見事IPOを果たしました。北海道ベンチャー黄金時代と呼ばれるIPOラッシュの始まりです。
この出来事は私の人生の中で大きな自信と勇気になりました。世の中の常識を疑い、自分が信じる道を貫けば不可能なことはない。ベンチャー不毛の地と言われた北海道でベンチャー黄金時代を築き、日本経済史の中に自らの爪痕を残すことができました。
北海道にいる間に本社への栄転を2回ほど辞退して、ようやく94年に東京本社に戻りました。東京に戻ると驚きました。どう考えてもIPOしそうにもない企業に投資していたり、本当にしんどい状況。当時、私は課長として7名の部下を預かっていて、この状況に風穴を開けるべく独自路線をとりました。毎朝オフィスに出勤せず、新宿駅西口のドトールにみんなで集合して作戦会議。名付けて“新宿開拓作戦"。新宿に多くの未上場優良企業が眠っていると想定し、新宿地域に絞ってローラー作戦を展開したんです。社内では「村口のところは会社にも来ず、何しているんだ」という声があったそうですが、気にせずに独自路線をひた走りました。そうして現在のセプテーニやオービックビジネスコンサルタント(勘定奉行で有名)を発掘し投資することができました。
また私は大企業の中で組織病にかかりたくなかったので、毎年私費で海外視察に行っていました。そんな海外視察を通じて、海外から見た日本の魅力に気づいて日本のサブカルチャーに注目。その賜物としてブロッコリー(ゲームやキャラクター事業)の投資につながったりもしました。
ジャフコ時代、私は破天荒な社員で上層部からすると扱いづらかったかもしれません。でも2年に1社は私の担当案件がIPOしていたこともあり、振り返るとサラリーマンとしては比較的順風満帆だったかと思います。
キミはベンチャーキャピタリストではない
―そんな村口さんが、どうしてジャフコを辞めて日本テクノロジーベンチャーパートナーズ(以下、NTVP)を立ち上げたんですか?
村口:たしかにサラリーマンとして順風満帆でしたが、ずっと頭の中に引っかかっていたことがありました。毎年のように私費でシリコンバレーに行き、現地のベンチャーキャピタリストに私の案件がIPOしたと話すと、「Congrats!おめでとう!」と讃えてはくれるものの、いつも最後に「But you are not Venture Capitalist.」と言われた。キミはベンチャーキャピタリストではない、キミは単に投資しているだけだと。彼らが言うVCとは、「ファンドを自ら組成し、投資家からお金を集め、企業を発掘して投資を実行、ハンズオンで企業の成長支援をしてイグジットさせてキャピタルゲインを得る。そのキャピタルゲインをまず投資家に分配し、次にVC自身もリターンを得て、最後にファンドを解散する。これをすべてやって初めてVCと言えるのだ」と。
しかも報酬形態も、私と彼らとでは全然違った。アメリカのVCはCarried interest(略してキャリー)といって、投資家に投資元本を返し終わったのち、その利益の20%がキャピタリスト個人の手元にドカッと入る。サラリーマンのボーナスとは桁が違う。キャリーという事実上青天井の報酬形態なんです。だから彼らは節税の話なんかにも詳しかった。ケイマンに登記をするとか何とか。でも私はそんな話についていけなかった。
当時のジャフコでは自分の案件がIPOしたら、お祝いとして高島屋の5,000円ワイシャツ仕立券がもらえただけでした。私はたしかに終身雇用のサラリーマンとして安定しているかもしれない。でも、投資が成功しても自分の手元に入ってくるのは微々たるボーナス。この違いを知って愕然としました。
またジャフコでは、投資先企業の役員にすら入れなかった。ハンズオンしたくても物理的にできない。そもそもジャフコにはハンズオンという概念はなく、投資先に経営コンサルティングするという認識でした。アメリカではVCが非常勤役員として役員会に直接参加して経営に関与していました。
ジャフコはVC業務を完全に分業化し、名刺も○○部○○課の課長というふうにまさに日本の大企業組織と同じでした。VCに憧れて新卒入社し、それまで頑張ってきた私にとって、「You are not Venture Capitalist.」という言葉は、しばらく頭にこびりついて離れませんでした。
―NTVP設立の直接的なきっかけは、イスラエル視察だったと聞きました。
村口:頭の片隅に先ほどの言葉が引っかかりながらイスラエル視察をした時のことです。ちょうど当時のイスラエルはベンチャーとVCなどのベンチャーエコシステムが盛り上がっている時で、どんな状況なのか実際自分の目で確かめようと思い、イスラエルのテルアビブ空港に降り立ちました。
当時のイスラエルのVCの歴史はわずか10年ほど。すでに私は14年間もジャフコで投資活動をしていたので、何かイスラエルのVCの人たちに教えてあげられることもあるのではと当初思っていました。これは私の大きな勘違いだったのですが。
イスラエルのVCに実際に会って驚きました。アメリカのVCと全く同じだったんです。VCの歴史が浅いのに、シード期にリスクを取って投資をし、ハンズオンで経営に関与していた。まさに私が理想とするVCを実践していたわけです。衝撃を受けました。彼らのほうが私よりよっぽど進んでいた。
そんな挫折を感じながら、ある晩にホテルにある中華レストランで日本在住経験を持つイスラエル人と会食しました。そこで彼が言ったのは、「日本人は調整するのがうまい。みんなが周りの歩調に合わせて全員で力を合わせて動く。それが何とも素晴らしい。イスラエル人はIndividualism個人主義だ。ひとたび人が集まると、すぐに議論が始まる。みんな勝手に自分の意見を述べて、最後は喧嘩になってしまう。それに比べて、日本は良い国だ」と。彼としては、もちろん日本を褒めてくれたわけです。でも、私には逆にこれが日本の問題だと気づきました。そして、同時にこれは日本のVCにも当てはまると思いました。ジャフコも、そもそも組織として合議制で投資をしているから、大胆な創業投資が実行できない。個人でやれば少々の無茶もでき、VC個人の個性で勝負ができる。やはりVCとは本来そういうものなんじゃないかと。
その時、敬愛する福沢諭吉の顔が脳裏に浮かびました。独立自尊。この福沢諭吉の精神こそ、今の日本のVCに必要なんだ。そして、それをやるのは自分しかいない。私がリスクを取ってやるべきだと腹落ちしたんです。ジャフコという大企業を辞め、自分個人で責任を取るVCを日本で始めようと。新しいVCを早く日本に作らなければ、アメリカにいつまで経っても勝てない。その差は開くばかり。これは日本にとって国家的急務だと思いました。
そうと思い立ったら即行動。イスラエルからの帰路、オランダのスキポール空港でトランジットした時に、自分なりの新しいVCの構想を描きました。そして日本に帰る機内、遠くにオーロラが見えると機内放送があったあたりで、NTVP(日本テクノロジーベンチャーパートナーズ)の社名を決めました。成田空港に着陸し、すぐに親族を説得。駅前で「会社の上手な辞め方」という本を買い、休み明け朝一番に当時の担当役員に辞表を提出しました。
法務リスクを負ってでも歴史を変えたい
―そこから個人主体の日本初のVC「NTVP」ができたわけですね。
村口:日本でもアメリカやイスラエルのようなVCを作りたい。そう思って、会社を辞めて、再度すぐにシリコンバレーに飛びました。会社組織ではなく、村口個人がGP(General Partnerの略で業務執行組合員のこと)となり、ファンドを個人の責任で運営する。これを実現するためには本場アメリカで調査して日本に持ち帰らなければいけないと。
でも、いきなりアメリカの弁護士に「やるな」と止められました。個人がGPになるのはアメリカでも古典的なやり方ではある。ただ最近ではほとんど無いケースだと。なぜならLP(Limited Partnerの略で出資者のこと)からGP個人が直接訴えられるリスクがあるから。当時アメリカではLLC(Limited Liability Companyの略で合同会社のこと)という法人形態があり、このLLCをGPにするのが一般的でした。
LLCというのは、ファンドのGPとして非常に都合の良い法人形態となっており、LPからの訴訟リスクを守ってくれるうえ、パススルー(※)だったんです。パススルーとは、LLCでキャリー(成功報酬)は課税されず、そのまま個人の懐に入るという便利な形式。法務リスクはVC個人で負わなくていいし、課税も法人課税は無く、つまりスルーできて個人のキャピタルゲイン課税の一度だけで済む。LLCはVCにとって非常に理想的な法人形態でした。でも、そんなLLCのような便利な法人形態は当時の日本になかった。当時の日本では投資先企業がイグジットして、VCにキャピタルゲインが入っても、まずGPが法人として一度課税され、その後GPから給与を取る際に個人でもう一度課税される。そんな税務効率の悪いスキームでした。
LLCのような法人形態が日本にないなら、たとえ法務リスクを個人で負ってでも村口個人でGPをやるしかないと思いました。アメリカの弁護士からは「そんなことしたら個人で訴訟リスクをすべて背負い、個人で裁判所に行かなくてはいけなくなるぞ」と言われた。でも、ここで諦めたら歴史は変わらない。もうやるしかない。しかも日本人はアメリカ人みたいにそんなに訴えてきたりはしないだろう(笑)。また、たとえ訴えられても、その時はその時だと腹をくくりました。
そうして村口個人でGPになり、VCをつくることを決意。私としてはリスクを背負ってでも個人の責任でVCをやって成功させ、日本のVCの歴史を変えたかった。個人のキャピタルゲイン課税のみで報酬を得て、そんなことができるのだということを日本の地で実証してみせたかった。それが日本の新しいVCの幕開けになると信じていました。
98年11月1日にNTVPi-1号投資事業有限責任組合をスタートさせました。ちょうどたまたま98年に投資事業有限責任組合の法律が施行されて、その第一号となりました。当時の経産省も驚いたと思います。彼らとしては当然、GPは株式会社でやるものだと思っていたようで、経産省が出していた設立ガイドラインもすべて株式会社がGPの前提で書かれていました。まさか第1号のGPが個人だとは彼らも予想していなかったでしょう。
後日、2005年に投資先のDeNAがIPOした時、私個人に巨額のキャピタルゲインが入ってきました。すぐに国税庁が飛んできました。これは個人のキャピタルゲインではなく、事業収益ではないのかと。金額が大きすぎると。そこから半年間に渡って国税庁3部署合同チーム13名による徹底的な私への調査が始まりました。最終的には、霞が関にある国税庁に来てくれと言われ、調査チームのトップ2人が居並ぶ中で面談。その翌週に「村口さんの解釈で問題ない」と判定されました。事業収益ではなく、個人のキャピタルゲインとして判定されたんです。法人の法人税でも、個人の所得税でもなく、個人のキャピタルゲイン課税(20%)のみが認められた瞬間でした。私はこの瞬間こそ報酬観点ではありますが、日本のVCの歴史的スタートだったと自負しています。
前例のないことを自ら実践して証明してみせ、歴史を変える。もしNTVPをつくる前に税務当局に事前確認をしたら、ダメだと言われ潰されていたかもしれない。だから私はあえて事前確認しなかった(笑)。自ら実践して既成事実をつくり、それで歴史を変えたかったんです。そうでもしなければ、永遠に日本のVCの歴史は変わらないと思いました。
後日談があって、しばらくして日本でも先程のLLCの法人形態がついにできました。これでようやく日本でもLLCをGPにできる。つまり訴訟リスクを個人が負うことなく、しかもパススルーでキャピタルゲインを個人が直接享受できると思いました。本当に良かったと心から喜んだんですが、よくよく調べてみて愕然としました。なんと日本版LLCはパススルーではなかったんです。つまり法人と個人で2回課税されてしまう。これじゃまったく使えない。
でも、しばらくして今度はパススルーができるLLP(Limited Liability Partnershipの略で有限責任事業組合のこと)という法人形態ができました。そうとなれば、このLLPをGPにしてVCをやればいいのではと、すぐに当局に問い合わせたら、「それはダメです。LLPでVCはできません」と釘を刺されました。もう日本ではパススルーのGP法人は無理だなと絶望的な気持ちになりました。
でも、なんと5年ほど前から誰かが勝手にLLPをGPにしてVCをやり始めたんです。もちろん法務局を正式に通して。びっくりしました。私が当時法務局に事前確認したらダメだと言われたのに、いつのまにか誰かが勝手に始めて既成事実化した。やはりこういう新しいチャレンジは役所に事前確認すると良くないな、潰されてしまうなと改めて痛感しました。
※パススルー:VCが得たキャピタルゲインや配当などの利益が、VCの法人では課税されずに、課税前ベースで出資者へ分配できる形態のこと。法人自体に課税されると出資者には課税後の利益が分配され、その分配に対してさらに所得税が課税されるという二重課税が発生。
日本も捨てたもんじゃない
―当初、出資者は順調に集まりましたか?
村口:「個人GPのVCにお金を出す人はいないんじゃないか。株式会社がGPだからみんな安心してお金を出すんじゃないか」と冷ややかな意見が大半でした。でも、いま個人をGPとした新しいVCをつくらないと日本はどんどん取り残される。アメリカに追いつけないし、追い越せない。そういう強い危機感が私にあったので周囲の冷ややかな意見にひるむことなく、熱心に自分の想いを説いて周りました。創業経営者を中心に精力的に出資のお願いに周った。
そうすると、始めこそ「そんなの無理じゃないか」という冷ややかなものでしたが、1時間も私が熱心に話すと、最後の最後の方でほとんどの人が想いに共感してくれた。是非やるべきだと、みんな応援してくれたんです。これには驚きました。
総論反対だけど、そこまでの熱意でやるなら、筋も通っているし本質的に賛成だと。これは日本人の根本的な性質なんじゃないでしょうか。表面的にはとりあえずやめとけと、常識的に考えたらやめたほうがいいよと。でも本質的に考えたら、それは正しい、それならやるべきだ、そして応援もすると。そんな反応だったんです。この時に日本も捨てたもんじゃないなと思いました。日本人は常識を重んじ、世間体を気にする。でも、いざというときは本質的なところできちんと判断してくれる。そんな体験をしました。出資のお願いで周ったらほとんどの方が出資を約束してくれました。本当に有難かったです。
ほれや!!伝説的起業家のひとこと
―堀場製作所の堀場さんも出資されたそうですが、堀場さんとの出会いについて教えてください。
村口:今から考えれば大変失礼な話なんですが、最初私は堀場さんがどんな方なのかもよく知らず、ある人の紹介で堀場さんに会いました。私は堀場さんに単刀直入に自分のVCのスタイルを説明しました。投資先もレイターではなくシード。シードは事業実績も乏しいので、投資審査するうえでエビデンスも少ない。だから自分の直感で投資する。しかもGPは村口個人。今回の出資も堀場製作所としての企業からの出資ではなく、堀場さん個人からの出資をお願いしたい。そんな話を情熱的に一気にしました。そうしたら堀場さん、「あんたムチャクチャやなあ」と(笑)。
でも、日本のVCとアメリカのVCの違い、日本のVCが今後どうあるべきか、日本のベンチャー業界に対する強い危機感。そんな私の想いを語っていくうち、堀場さんが「うーーん、うーーん」と力強く、そして息長くうなずき、いきなり「ほれや!!」とおっしゃった。私もびっくり(笑)。突然、大きな声を出されたので。
「今までいろんなVCがお金を出資してくれと話しに来た。でも、今までのVCはホンマのVCじゃない。あなたが初めてだ。私の理想としているVCに一番近い」と感激してくれたんです。そして、その場でNTVPに個人で出資することを約束してくれました。
村口:後で知ったことなんですが、堀場さんは1974年にオムロンの立石義雄さんと「京都ベンチャーキャピタル」というVCをつくっておられました。当初は個人から資金を集めてVCを始めようとしていたのに、いつのまにか企業の資金を集めてVCをすることになり、けっきょく投資審査で投資案件がほとんど通らず、早々に解散した苦い経験をお持ちでした。そのときの強い問題意識が、「ほれや!!」につながったわけです。
堀場さんから出資を頂き、私も感無量でした。アメリカでYou are not Venture Capitalist.と言われて悔しい思いをし、日本でも個人主体のVCをつくらなければと志し、当初は孤立無援だと思っていた。しかし日本でもこんなにも力強い味方がいるんだと、それを知って勇気がわいた。堀場さんのような叩き上げの創業経営者は幾多の苦労を経て、何が物事の本質なのかを直感的に分かるのでしょうね。
堀場さん個人が出資するのは大変珍しいようで、後日に経産省の人から「村口さんは堀場さんの親戚に違いないと省内で噂になっている」と聞きました(笑)。力強い味方に支えられ、3億3,000万円という少ない資金でしたが、98年にNTVPi-1号投資事業有限責任組合は産声を上げることができました。
この時の経験から、今でも若いVCからの相談は私も積極的に乗って、できる限り応援するようにしています。どんどん新しいことにチャレンジして、日本のVC業界を盛り上げ、みんなに成功してほしいと思っています。
(取材・文 明石 智義)
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