タリーズはなぜバイアウトへと向かったのか?
―1997年に銀座でタリーズ1号店をオープンし、2007年にタリーズコーヒー・ジャパンの代表を退任。このタリーズでの10年間を振り返っていかがですか?
本当に色々ありましたね(笑)。普通の経営者が経験できないことをたくさん経験させてもらったと思います。当時はシアトルに4、5店舗しかなかったタリーズを日本に持ってきて、全国に店舗展開。そして株式上場、MBO(※)による上場廃止、バイアウト(会社売却)まで。会社を潰す以外のことは、ほとんど経験してきました。
※MBO:マネジメント・バイアウトの略称。企業の経営陣が自ら自社株式や事業部門を買い取って、それらを株主から譲渡されること。
―今回は「出口のその先に」という企画でして、タリーズのバイアウトまでの経緯をお聞きしたいです。そもそもどうしてタリーズをバイアウトすることになったんですか?
日本でタリーズをやり始めたのが1997年。まず銀座に1号店を出店しました。そして翌年タリーズコーヒージャパン株式会社を設立。そこから3年で上場したものの、MBOで上場廃止する道を選んだ。その辺りが一つの分岐点だったので、そこからお話します。
私が上場廃止を選んだ理由は二つです。まず一つ目はよほど突き抜けた業態を開発していない限りは、ワンブランドの飲食業が上場に向いていないと感じたこと。飲食業は店舗の増加に比例して売上が上がるビジネスモデルです。そのため来年の出店計画で売上もおおよそ見え、株主の期待がそれ以上に上振れることがない。つまり上場してもレバレッジが効きにくいのです。
たとえばITビジネスであれば、損益分岐点を超えると一気に利益率は高くなります。一度プラットフォームさえつくってしまえば、あとはユーザーがどれだけ増えても、追加で掛かるコストは一気に増えません。でも飲食業では店舗を増やす度に人件費や家賃などが追加で掛かってくる。結局いくら店舗を増やしても、利益率は低いままです。
株主総会で「来年は30店舗出店します!」と発表すると、株価が下がる(笑)。一方で会社を成長させるために店舗を増やそうと、焦って出店を決めてしまうと、事前のリサーチや社員育成が未熟なまま出店することになり、赤字の店舗が出たり、サービスの悪い店が生まれたりする。その結果として、タリーズのブランドが傷つくこともありました。私はそんなことをしてまで、上場企業であり続ける意味を見出せなかったのです。
―二つ目の理由はなんですか?
本家である米国タリーズが経営危機に陥ったことです。当時の米国法人は10年連続の赤字で、いよいよ倒産間近でした。我々は米国タリーズとライセンス供与(※)の契約を結び、日本でタリーズを展開していました。もし本家が倒産したり他社に買収されることがあれば、この契約がなくなる恐れもある。そうなれば日本のタリーズも立ちゆかなくなってしまいます。
米国ではそんな敵対的買収は日常茶飯事。ちょうどスターバックスが競合他社の買収を積極的にやっていましたし、タリーズが買収される可能性も大いにありました。
※ライセンス供与:ブランドを保有する会社に対して一定の費用を支払い、ブランドの名称・ロゴ等の使用を認める契約のこと。
―本家である米国タリーズが買収されると、日本でタリーズを展開するライセンスも使えなくなる可能性があるということですね。
そうです。そんな最悪の事態を避けるため、私は水面下で米国タリーズを吸収合併しようと考えたんです。米国タリーズの累積赤字は100億ほど。それに対して日本タリーズの当時の年間利益は3億~4億ほどしかない。100億円なんて到底払えません。吸収合併を考えたものの、もし米国タリーズの買収を発表すれば、日本タリーズの株価が暴落することは明らかでした。
だからMBOをして株式を買い戻し、株主に迷惑を掛けずに米国タリーズを買収するしかないなと。その時のタリーズの株価は40万そこら。でも私は52万ほどで株式を買い取る約束をしました。MBOを考えている人によくあるのが、できるだけ安い株価で買い取ろうとすること。でも私は今まで応援してくれた株主への恩を考えると、高く買い取るのが筋だと思いました。
結果として所在がわからない1%の株主を除いて、99%の株主がMBOを承諾してくれた。つまり、ほぼ100%の株主が賛同してくれました。上場時の株価は16万ほどだったので、株主にはちゃんと貢献できたのではないかと思います。
―買収には多額のお金が必要ですよね。そんな資金をどうやって集めたんですか?
まずファンドからお金を集めました。大手も含めていくつかのファンドから声が掛かったのですが、あるブティックファンド(独立系ファンドの意)と組むことに。ここでブティックファンドを選択したことが後々厄介なことを招くのですが、それは後で詳しく説明します。
次にLBO(※)という方法を用いて銀行からお金を借りました。LBOは簡単に言うと、会社を買収するためのローンみたいなもの。一般的に上場企業がよく使う方法です。私はこのブティックファンドと共に、LBOを使って銀行からお金を借りたのです。
こうして多額の資金を集め、私たちはタリーズの株式を買い取ってMBOは無事成功。タリーズは非上場企業になりました。多額の借金を抱えることにはなりましたが、またゼロから仕切り直そうといった気持ちでしたね。
※LBO:レバレッジド・バイアウトの略称。企業が保有する資産や将来に期待されるキャッシュフローを担保とし、金融機関などから資金調達をして買収する方法。
米国タリーズ創業者との交渉決裂。ファンドの心変わり
―MBOの目的であった米国タリーズの吸収合併は進んだんですか?
いえ、実はこれがうまくいかなかったのです。MBOして資金も集まり準備が整ったにも関わらず、最後の最後で米国タリーズの買収は破談になりました。理由はタリーズ創業者トム・オキーフとの交渉決裂です。
トムは米国タリーズ買収の条件として買収後も自身がボードメンバーになり、なおかつ会長になることを要求。しかもそれだけでなく、会社で自分ひとりだけが拒否権を持ちたいとまで言ってきました。100億の赤字を抱えて吸収される側であるにも関わらず、自分だけ非常に強い効力をもつ「拒否権」まで要求している。社外役員としてポジションを残す程度であればまだいいのですが、トムの要求は信じがたいものでした。
我々がその要求を断ると、結局トムは合併そのものを拒否しました。せっかくMBOしたのに米国タリーズの吸収合併という目的を果たすことができなくなってしまった。このままでは米国タリーズが他社に買収されるリスクが残り続ける。そこで仕方なく日本の商標だけを買い取ることに切り替えたのです。
米国タリーズ側も赤字でお金に困っていましたし、この交渉はうまくいきました。こうして日本タリーズの商標を永久的に得て、他社に日本タリーズを乗っ取られるリスクは何とか回避できました。
―ようやく日本タリーズとして独立できたということですね。
はい。私はこれでタリーズを守れたと安堵しました。しかし安心したのも束の間。また予期せぬ事態が起こったのです。なんと共にMBOしたブティックファンドが、タリーズの株式を売ると言い始めたのです。
当初の約束で彼らは最低でも7年間株式を持つと約束してくれた。場合によってはその後も2、3年はロールオーバー(※)して、10年は株式を保有するという話でした。それなのにそのブティックファンドは投資からたった2年で「株式を売りたい」と言ってきたのです。私は驚きを隠せませんでした。
彼らは別の大手ファンドにかなり高い株価で株式を売ろうとしていた。その大手ファンドはタリーズを買収した後、全店舗に専用の端末を設置して、デイトレーダー向けのサービスをやると言い始めたのです。デイトレーダーばかり集まるカフェになってしまえば、これまで築き上げたタリーズのブランドは大きく毀損してしまう。そんなことは絶対に許せません。私は何としても大手ファンドからの敵対的買収を阻止すると決意しました。
※ロールオーバー:保有している株式を取引最終日までにいったん決済し、次の期限以降の株式に乗り換え、継続して株式を持つこと
―大手ファンドに敵対的買収を仕掛けられ、危機に陥ったと。
それだけでなく、当時の財務状況は厳しいものでした。MBOする際に株式を高値で買い取ったこともあり、のれん代(※)だけでひと苦労。EBITDA(営業利益)は出せているにも関わらず、ボトムライン(税引き後純利益のこと)は赤字が続きました。
銀行とのコベナンツ(※)の中には、2期連続最終赤字となれば条件の見直しがされると記載されていた。実際は営業利益が出ていてキャッシュが回っていたとしても、表面上の「赤字」を見て自分たちの貸付金利を上げることが可能でした。こういう状況を盾に取り、ファンド間の売買ゲームに引きずり込まれていったのです。
こうしてMBOは成功したものの、当初の眼目だった米国タリーズの吸収合併は破談になり、ファンドからは株式を売ると言われ、銀行からは金利を上げると言われた。あの時は全てが逆風。本当に予期せぬことばかりでした。
※のれん代:企業が保有する無形固定資産のこと。買収で支払った金額と買収先企業の純資産との差額。
※コベナンツ:融資の契約を締結するさいに、契約書に記載することのできる一定の特約事項。
たった2週間で起こった買収劇
―ブティックファンドが株式を売ろうとした時、株式の保有比率はどうなっていたんですか?
残念なことに私は自分が株式を多く保有するのではなく、たくさんの投資家に株式を持ってもらっていました。創業時から私が保有する株式は20%だけ。理想論ですが、所有と経営は別であるべきだと。敵対的買収を仕掛けてきた大手ファンドは、ブティックファンドだけでなくタリーズの大株主である数人の社外役員とも結託していた。買おうとしている全ての株式を合わせると、私が保有している株式より圧倒的に多かったのです。
敵対的買収の話はどんどん進み、気づけば大手ファンドに株式を売られる寸前まで来てしまっていた。カウントダウンは着実に進んでいました。次の役員会で大手ファンドによる買収が発表されることになり、私に残された時間は役員会までのたった2週間だけ。
どうしてもタリーズを手放したくない。しかしこのままでは大手ファンドに買収されてしまう。タリーズを守るにはどうすればいいか、私は必死に対策を考えました。
しかし、いくら考えても解決策はでない。資金力では大手ファンドに到底太刀打ちできませんし、もはやタリーズを誰かに譲渡することはやむを得ないと考えるしかありませんでした。ただ、譲渡するとしてもその大手ファンドではない別の会社にしたい。その大手ファンドの経営方針には納得いきませんでしたから。私は自分が信頼できる会社で、タリーズにとってプラスの影響をもたらす譲渡先を探し始めました。
―松田さんの株式保有比率は低く、敵対的買収を回避するにはどこかに譲渡することは免れないものの、その大手ファンドではない譲渡先を探すことにしたと。
思いついたのは2社。1社目は大手商社のA社で、創業時から付き合いがある会社でした。私は必死の思いでA社に一連の経緯を話し、タリーズを救うために投資してくれないかとお願いしたのです。するとA社は、すぐに投資を快諾してくれました。
しかし、ちょうどその頃A社はコンプライアンスで問題を起こしてしまっていた。「投資したいけれど、どうしても2週間では社内の稟議が通せない」と言われてしまい、私はまた暗闇の中に逆戻りしました。
でも落ち込んでいる暇はなかった。私はすぐ2社目に赴きました。実はそれが現在マジョリティーの株式を保有する伊藤園だったのです。伊藤園は以前からタリーズに投資したいと言ってくれており、私も親交がありました。
そんな経緯もあり、伊藤園はすぐに投資を快諾してくれた。なんとデューデリジェンスもたった2日で終えてくれたのです。あのスピードには驚きましたね。こうして何とか光明を見出すことができ、私は勝負の役員会へと向かいました。
買収を画策していた大手ファンドは、新たな買収相手が現れることなど夢にも思わなかったでしょう。しかも伊藤園は大手ファンドが提示していた額よりも高額で買収することを約束してくれた。こうして伊藤園がマジョリティーの株式を取得することで合意が取れました。
―本当にギリギリの状態だったんですね。バイアウトと同時に松田さんもタリーズの経営を離れたんですか?
伊藤園による買収から1年間はタリーズに社長として残って引き継ぎをしました。ありがたいことに、伊藤園からはタリーズの経営に残らないかと言われていた。しかし私はこの創業から10年のタイミングでタリーズを去ることを決意しました。
もともと自分は10年で代表権のない会長や相談役のようなポジションに就こうと思っており、タリーズを離れて新しい挑戦をすることを考えていたのです。またその時すでにタリーズには優秀な幹部たちが育っていました。彼らになら安心して会社を任せられる。伊藤園という信頼に足る強力なパートナーもいますし。私は頼もしい仲間たちに恵まれたおかげで、安心してタリーズを去る決断ができました。
タリーズの経営を離れるまで、丸1年かけて全国の店舗を1軒ずつ回った。当然のことながら他社にタリーズが買収されることを不安に感じている社員やフランチャイジーもいます。だから自分の口で、「伊藤園さんはタリーズを共に成長させてくれる良きパートナーだから安心して欲しい」という話を、ひとり一人に伝えていきました。こうして全ての店舗を回り終えた後、私は次の挑戦に向かったのです。
シンガポールへ。プロ経営者として新たな挑戦
―タリーズを離れた後は何をされたんですか?
一度新しい風に吹かれようと、2007年の12月からシンガポールに移住しました。東南アジアの中心地で世界からお金や優秀な人材が集まるシンガポールに行き、そこで三つの挑戦をしました。
まず一つ目はアメリカの大手サンドイッチチェーンであるクイズノス社での挑戦です。私はクイズノスからヘッドハンティングを受け、アジア太平洋地域の代表をやらないかと言われていました。当初はすぐに承諾せず、ひとまず米国クイズノスの代表に会いに行きました。
その時に米国クイズノスの代表は、私に対して「迷っているならやってみたらどうだ。俺だってクイズノス以外に何社も経営してるぞ」と言った。それを聞いて、「その手があったか!」と目から鱗が落ちましたね(笑)。
シンガポールでやりたいこともあり迷っていたのですが、クイズノスでプロ経営者として経験を積めることは貴重でした。こうして私はクイズノスの仕事を引き受け、在任期間中1号店から5店舗までを出店。グローバルな環境で自分の経営手腕を試せたことは、本当にいい経験になりました。
―二つ目の挑戦は何をしたんですか?
シンガポールでタリーズをやりました。実は私がシンガポールに移住した頃、先述したタリーズ創業者のトムは、米国タリーズの社長を退任していました。ただ彼はまだ東南アジアでタリーズを展開する権利を持っていた。そしてトムは私がシンガポールに居ると聞き、私にシンガポールでタリーズをやらないかと言ってきたのです。
私は彼の誘いを引き受けました。色々あったものの、日本タリーズの進出時からトムにはお世話になっていましたから。でも結果からお伝えするとシンガポールでのタリーズの展開は失敗に終わってしまいました。
―詳しく教えてください。
タリーズの仕事を引き受けてから、私はシンガポールで出店を成功させるための情報を集めた。その中で現地で力を持つ強力なパートナーにも恵まれ、また有難いことに日本から昔の仲間たちも応援に駆けつけてくれたのです。そのおかげもあり2年間でシンガポールに7店舗をオープンし、タリーズはシンガポールで軌道に乗りつつあった。
そんな時でした。シンガポールでタリーズが軌道に乗るのを見たトムは、なんと自分が経営を主導したいと言い始めたのです。私は現地で進出を手伝ってくれたパートナーや日本から応援に駆けつけてくれた社員たちに申し訳ないと思いながらも、それを受け入れるしかありませんでした。というのも出資比率は五分五分でしたが、トムサイドが「ゼネラルパートナー」としての決定権を持っていた。こうして止むなくトムに経営を引き継ぎました。
しかしトムはリサーチが不十分な状態で出店したり、社員育成を疎かにすることも多かった。せっかく日本から来てくれた仲間を「あいつは英語もヘタだし、クビにする」と急に辞めさせたりして、次第に業績も悪化しました。そして最終的にタリーズはシンガポールから撤退することになってしまったのです。トムと経営権の交渉をもっとうまくやっていれば成功できていたかもしれない。手伝ってくれた人たちには申し訳ない気持ちで一杯でしたね。
―そうだったんですね。三つ目の挑戦は何をしたんですか?
三つ目は私がかねてより挑戦したかった和食レストランです。シンガポールを含む東南アジアでは和食ブームが生まれはじめていて、自分もその一翼を担いたいと思っていました。実際に和食レストランをオープンする準備も進めており、店舗も着工していた。
しかし、その頃ちょうどリーマン・ショックが起こり、空前の金融危機で世界の経済は大混乱に陥った。金融の中心地であるシンガポールにもその波は押し寄せてきました。それからは状況が一変。大盛況だった高級和食レストランは客足も途絶え、どこも閑古鳥が鳴く状態。こんな状況では到底オープンに踏み切れません。残念ながら私は自分の夢を一旦諦めることにし、工事を中止して和食レストランを断念したのです。
パンケーキブームの火付け役に。朝食文化を根付かせたい
―2007年12月にシンガポールに移住して、さまざまな挑戦をしたもののリーマン・ショックに見舞われた。その後は何をされたんですか?
世界的な不況によって数々の始めたばかりの事業が苦戦したのは事実です。しかし、起業家にとって言い訳は意味がありません。結局、その損失は全て自分の責任になるわけですから。そこで、次は何をしようかと考えていた頃、また新たな出会いがありました。
ハワイでレストラン経営をしている日本人夫婦が他国での展開を考えており、私にその役を担ってほしいというのです。お店の名前を聞いて驚いたのですが、その店こそ現在やっている『Eggs 'n Things』だったのです。
Eggs 'n Thingsは1974年にアメリカ人夫妻によって創業されたハワイで人気のカジュアルレストランでした。実は私は過去にそのアメリカ人創業者とFC展開について交渉したことがあったのです。しかしハワイで1店舗のみを運営するEggs 'n Thingsにとって、海外での事業拡大という考えはなく、当時はパートナーシップには至りませんでした。
そのアメリカ人創業者が病気でお亡くなりになり、店舗の経営を引き継いだのが、私を訪ねてビジネス相談に来た日本人夫妻でした。そんなご縁から米国(ハワイ・グアム)を除く全世界での展開権を獲得。世界での展開権を得た理由は、これまでの経験からも日本だけではなく世界を視野に考えていたからです。こうして2010年3月、海外初となるEggs 'n Thingsを東京・原宿にオープンしました。
―偶然の再会だったんですね。立ち上げはうまく行きましたか?
創業準備、商品の企画・試作、そしてオープンからはアロハシャツを着て接客もしていました。当時はまだ日本にあるのはホットケーキだけで、パンケーキという言葉は浸透していなかった。私はスタッフらとともに試行錯誤を繰り返し、また「朝食専門店」というインパクトのあるコンセプトなどもメディアに注目され、結果として日本でパンケーキブームが起こりました。
我々はその火付け役として注目されましたが、実は私が日本に根付かせたかったのはパンケーキブームではなく朝食文化なのです。アメリカに住んでいた頃はどこにでもあったダイナー。終日ボリュームたっぷりの朝食が食べられるカジュアルレストランに家族や友達とよく行きました。日本では朝食を食べない人も多いですが、アメリカではガッツリ食べる人が多い。またビジネスにおいても、朝食を食べながらの商談や会議などの打ち合わせを行ったりもします。朝は一番頭が冴えていますし、私も朝食を食べながらの打ち合わせが大好きです。
しかし日本ではオフィス以外での打ち合わせと言えば、夜の会食であったり、銀座の高級店での接待だったりします。それを見て、もっと違う選択肢があっても良いのではないかと思った。そして朝食文化を充実させるための第一歩として、“All Day Breakfast”をコンセプトにし、朝だけでなく昼も夜も美味しくボリューム感のあるブレックファーストメニューを楽しめるEggs 'n Thingsを展開し始めたのです。
参議院議員を経験。政治で感じた課題をビジネスで解決したい
―松田さんは参議院議員としてもご活躍されてましたよね?Eggs 'n Thingsの経営をしている中、何がきっかけで議員になったんですか?
Eggs 'n Thingsの立上げをしているそんなある日、以前からの知人である政治家の方から、唐突に「出馬しませんか?」と誘われたことがきっかけです。まったく想定外のことで、もちろんすぐにお断りしました。
しかし当時の日本はアジアの中でも特に元気がなく、総理大臣もコロコロ変わっている印象だった。私がシンガポールで日本食を展開したかったのは、文化の懸け橋となって日本の良さを広めたいという思いからでした。「素晴らしい国」と認められなければ、日本の魅力は伝わらないまま。そう考えると政治を変えることも必要です。こうして次第に日本を元気したい、日本の良さを広げたいという思いが募り、予想だにしなかった政界への出馬を決意することとなりました。
―政治家からビジネスに復帰された後は何をしたんですか?
Eggs 'n Thingsの経営に復帰しました。現在はコロナ禍で外食産業は大きな打撃を受け、守りの体制が続いています。なんとかこの危機を乗り越えるべく頑張ってます。
実はコロナ以前から外食産業のDX化のために様々なシステム開発をしていました。その一例にAIアバターレジがあり、AIアバターと会話をすることで注文から決済までを非接触で行うことができるので、コロナ禍での需要も高まっています。
コロナ禍の窮状を与野党議員らと議論
非接触型「AIアバターレジ」の記者発表会
また新しく始めたことの一つにバイオエネルギー事業があります。私は政治家時代に自然エネルギー政策などに必死に取り組んできました。しかし政治からはなかなか変えることはできなかった。どうしても安定した電力供給を維持するためという名目で、原発回帰になってしまう。政治の世界ではさまざまなしがらみもあり、原発から離れるという選択肢を取りづらい現状がありました。だからビジネスからそれを変えたいと思っているんです。
ただ現在取り組んでいるバイオエネルギー事業は依然として赤字続き。それでも誰かがやらなければならない。息が長く見返りも少ない事業ですが、今後もカーボンニュートラルを達成するためにも、辛抱強く取り組んでいくつもりです。
―松田さんのビジョンを教えてください。
人生の目標の一つに50歳になったらチャリティーやボランティアをやりたいと考えていましたが、今では56歳までビジネスをやろうと計画変更しました(笑)。政治家時代は奉公のつもりで精一杯活動をしてきたので、その6年間をビジネスの時間として追加し、頑張ろうと思っています。
もう一つ、私の原点を振り返った時に日本文化を世界に広めるという夢があります。私がアメリカに居たのは40年以上も前のことですが、その時は「日本人はみんなちょんまげだ」とか本気で言われていた。サルみたいだと馬鹿にされることもありました。今では世界各地で食べられる寿司も当時は受け入れられなかった。私は昔から寿司が大好きで、日本食を否定されたことで自分自身の存在まで否定された気持ちになってしまいました。
こんな風にお互いの文化を理解し合えないから、自分と違う人を偏った目でみたり、差別したりしてしまう。ひいてはそれが戦争にも繋がっているんだと思います。そんな不幸をなくすために、和食文化を世界に広めていきたい。それが平和な世の中を実現することにも繋がると思っていますね。