株式を保有したままバイアウト、という異例のスキーム
―恵島さんは2017年にROI社(覆面調査サービスを運営)の代表を退かれました。どういう経緯で会社の経営を退いたんですか?
僕はもともとバイアウト(会社売却)を念頭に置いて起業してました。会社の出口戦略にはIPOやバイアウトなどポジティブな方法か、あるいは清算や倒産などネガティブな方法しかない。当然ネガティブな方法は選びたくないわけで、だったらIPOとバイアウトどっちにするかという話になります。
IPOは何度か検討したものの準備にお金が掛かるし、仮にIPOできても上場企業としての制約ができてしまう。たとえば新しい挑戦をしたくても株主に説明するコストが生じてしまったり。僕は自分の性格上、会社の成長を維持していくよりも、0→1で新しいことにどんどん挑戦したいタイプなんです。だからIPOして制約を生みたくはなかったので、バイアウトを選びました。
また自分の中の決め事として、事業の営業利益が1億ぐらい出たら大幅な権限移譲をするようにしています。ROIも2012年の段階で役員に大半の権限を委譲していた。僕が居なくても役員やメンバーたちが会社をきちんと回してくれてました。自分がもらう給料も彼らに決めてもらってましたね。
―2012年あたりから権限移譲して現場を離れていたし、恵島さんとしても0→1で挑戦したかった。だからIPOではなくバイアウトしたということですか?
そうですね。ROIは既に軌道に乗っており、粛々と事業を伸ばしていくフェーズに突入してました。メンバーたちはうまく会社を回してくれていて、コンスタントに25億~30億ほどの売上があった。
また有難いことに僕より優秀な役員が揃ってました。個人的には悲しいことですが、彼らのほうが僕よりよっぽどROIを成長させられるなと(笑)。
あと僕個人としては億単位の負債を、バイアウトで得た資金で返済したいという気持ちもありました。こうしてもろもろの条件が揃ったので、創業時から考えていたバイアウトに踏み切ったんです。
―実際にバイアウトしてみてどうでしたか?
自分の子供を手放すような寂しさを感じましたね。会社は僕にとって自分の子供のようなもの。バイアウトはそんな可愛い子供を手放すような感覚です。いざ手放すとなった時は本当に寂しい。この感情を理解できる人はなかなかいないと思います。
僕は退任時にROIのメンバーに向けて1通のメールを送りました。そのメールにはその時の想いを全部書いてます。今でもたまに見返してますね。ぜひ当時の自分のような状態にある経営者に読んでもらいたいです。
番外編:【全文そのまま】恵島さんが退任時にメンバーに送った最後のメールはこちら
―ちなみにROIのバイアウトは少し特殊なスキームだったんですよね?
ほとんど例がないスキームなんじゃないかと思います。このスキームの最大のメリットは、何かを得る代わりに何かを手放すトレードオフではなく、一挙両得であることです。どういうことかと言うと、普通バイアウトする時は株式を手放して、その対価としてリターンを得ますよね。でも、このスキームの場合は間接的に株式を保有したままバイアウトできるんです。
―バイアウトしたのに株式を手放さないんですか?どういうことでしょう?
簡単に言うとROIを一度バイアウトする。そしてその売却したROIの株式を投資家として買い戻す、ということをやりました。少し複雑なので図版に沿って説明します。
まずA社という会社を設立し、A社が銀行からお金を借ります。次に僕と数人の個人投資家からなるROIの株主(図版:A)が、A社に対してROIの株式を譲渡。A社にROIの株式が移行します。一方で私たちROIの既存株主は資金を得る。
その後、僕はその資金を使ってプライベート・エクイティ・ファンド(※)を組成。そのファンドにLP(リミテッド・パートナーの略。ファンド出資者のこと)として投資します。ちなみに図版に記載しているKarita and Companyが、そのファンドの組成を支援してくれた会社です。
そしてそのファンドが、ROIの株式を保有しているA社を買収する。つまりファンドがROIのマジョリティーの株式を保有するんです。僕はLPとしてそのファンドが持つ大半の資金を投資していたので、間接的にファンドを通じてROIの株式を保有することになります。要するに僕はROIの経営者から、ROIに投資する投資家になった。そして変わらず株式を保有し続けたんです。
それだけだと株式は保有できたものの、僕の手元にキャッシュがなくなります。そこでROIに銀行からお金を借りてもらい、そのお金を今度は僕がROIから借りた。そしてその資金でまた別の投資をしているというわけです。少々ややこしいので興味がある人は連絡ください(笑)。
※プライベート・エクイティ・ファンド:複数の機関投資家や個人投資家から集めた資金を基に事業会社や金融機関の未公開株を取得し、その企業の企業価値を高めた後に売却することを目的にしたファンド。
―なぜ一度バイアウトしたROIの株式を買い戻したんですか?
より大きなリターンを得るためです。ファンドを介してROIの株式を再取得したことで、ROIが成長すればより大きなキャピタルゲイン(ここでは株式の資産価値上昇による利益の意)を生めるようになったんです。
自分がつくった会社ということもあり、僕はROIが今後も必ず成長すると確信していた。だから株式を買い戻して、今度は投資家の立場から2度目のバイアウトを狙っています。2度目は1度目よりも大規模なバイアウトを目指してますね。10年後また大きなリターンを得られればいいなと思ってます。
バイアウトという共通の目的があるから本音で話せる
―ちなみにROIをバイアウトした後は何をしたんですか?
ちょうど子供たちが夏休みだったので、2カ月間ヨーロッパで家族旅行しました。ウクライナやハンガリーなどの東欧諸国や、北イタリア、スイスなどをゆっくり観光し、楽しかったです。
ビジネス面ではROIのバイアウトと同時に、ROIの傘下にあった国内事業や海外事業をMBO(※マネジメント・バイアウト)し、恵島個人で買い戻しました。
―ROIと一緒にバイアウトした傘下の会社を、今度は恵島さん個人で買い戻したと。
はい、売ったり買ったりややこしいですが(笑)。その時ROIから買い戻したのは、国内でやっていた『ドクターストレッチ』というストレッチ専門店のFC加盟店や、マレーシアでやっていた居酒屋、レンタルオフィスなどです。僕は買い戻したこれらの会社の経営にぐっと入り、業績を向上させて企業価値を高めた。そして再度、1年後に全ての会社をバイアウトしたんです。
※MBO:企業の経営陣が自ら自社株式や事業部門を買い取って、それらを株主から譲渡されること。
―ROIのバイアウトから1年でまた別の会社を売ったんですか?恵島さんは今まで何社バイアウトしたんですか?
僕は会社をバイアウトする前提でつくっていて、そのための工夫をしているんです。たとえば会社を任せる役員に、バイアウトが成功したら売却益の何十%を役員が得るという約束を最初からしています。だから役員になって会社がうまくいけば、自分で投資したり借り入れするリスクもなく、数年後に億単位のお金を得るチャンスがあるんです。
バイアウトという共通の目的があるから、対等な関係で事業を成長させるために協力し合える。よく上司に気を使って本音を言わないことってあるじゃないですか。会議も嫌々参加したり。僕らの場合はお互いの目的が完全に一致しているので、そんなこと全く起こらないんです。会議中はみんな積極的に質問してくるし、いつもお互いに「ありがとうございます」と言って会議を終えてますね。
―でも売却益を得てその役員がすぐ辞めてしまったら、買い手企業が困りませんか?
そうならないようア―ンアウト(※)ではないですが、その役員にはバイアウト後も会社に残ってもらいます。そして一定期間の成果に応じて、売却益の中から何%を得られるかが決まる方式にしているんです。たとえば3年間やってその業績見合いで、何%を得られるかがフィックスする。実際にやっているものだと、大体MAXで売却益の20%が報酬になるといったイメージです。予めそれを握っておくことで、買い手企業も売却後に役員が退職する心配がなくなり、安心してM&Aを実行することができるんです。
※ア―ンアウト:売り手企業が一定期間で特定の目標を達成した場合、買い手企業が売り手企業に、予め合意した算定方法に基づいた対価の一部を支払うこと。
1社目はバイアウトして、2社目でユニコーンを目指せ
―恵島さんの現在の活動について教えてください。
2018年8月にスタートアップスクエアという会社を設立しました。この会社では日本におけるスタートアップのショートイグジット活性化を目的として、スタートアップ投資や経営のアドバイスを行っています。
ショートイグジットとは、イメージで言うと設立3年で10億規模のバリュエーションがつく事業をつくり、バイアウトを目指すことです。
1億5千万規模のファンドも立ち上げており、現在は11社のスタートアップに投資しています。加えて僕はそれらの会社の顧問にもなってますね。
―スタートアップがショートイグジットを目指すメリットはなんですか?現状はIPOを目指す会社が多いと思いますが。
日本でユニコーン(※企業価値の評価額が10億ドル以上で、非上場かつ設立10年以内のベンチャー企業のこと)が生まれない大きな原因の一つが資金不足だと思うからです。スタートアップはいきなりIPOを目指さずに、一度はバイアウトして資金を貯め、そのあと大きな事業に挑戦してユニコーンになって欲しい。
たとえばメルカリを創業したばかりの山田さんは赤字を掘って大きな挑戦をされてました。でも山田さんがそうやって大きな挑戦をできたのも、もともとやっていた新作映画情報サイト「映画生活」をぴあに、そしてウノウを米ジンガにバイアウトしたからだと思うんです。
その売却益で潤沢な資金があったから金銭的にも精神的にも余裕を持って大きな挑戦ができたんじゃないかと。だから山田さんのようにバイアウトして資金を貯め、その後ユニコーンを目指すスタートアップが増えればいいなと思ってます。
学歴コンプレックス。もがき苦しんだ学生時代
―話は変わりますが、恵島さんはどんな学生時代を送りましたか?
生まれてから高校まで宮崎で過ごしました。勉強は意外とできるタイプで、中二の秋頃に特待生に選ばれたんです。そのおかげで高校は宮崎にある全寮制の進学校に授業料タダで通ってました。有難いことに学生服から修学旅行まで全てタダでしたね。
性格も明るくバスケ部でキャプテンをやったり、ちょっとやんちゃな友達と付き合ったり。全寮制で親の目からも離れたので、夜中に寮を抜け出して年上の彼女に会いに行ったり(笑)。
そんな感じで高校生活を謳歌してたんですが、肝心の学問がおろそかになってしまったんです。本当に全く勉強してなかった(笑)。僕が通ってた進学校では、成績上位5分の1の生徒が東大に受かるレベルでした。その中で僕は入試テストの段階で上から2番目だったんですが、卒業する時は下から2番目に(笑)。東大や早慶といったトップ大学に進学する友人が多い中、僕は偏差値の低い私立文系の大学に進学することになってしまったんです。「あー、やってしまったな」と、挫折感を味わいましたね。
―浪人して再チャレンジしようとは思わなかったんですか?
僕の家庭はそこまで裕福ではなかったんです。だから男3人兄弟のうち大学に行けるのは1人までと決まっていた。僕は次男で、兄は僕のために大学進学ではなく自衛隊への入隊を選びました。兄は今でも自衛隊にいて、エリートが集まる空軍でパイロットとして活躍してます。ちなみに弟は僕が立ち上げたスタートアップスクエアという会社で、僕と一緒に共同代表をしてくれてます。そんな家庭環境もあって浪人などもってのほかだったんです。
―大学では何をしたんですか?
大学1年の頃は本当につらい日々でした。僕が学生だった頃は今よりも学歴がものを言う時代。高校の同級生たちと一気に差ができてしまい、その差は一生埋まらないと思ってましたから。そうやってずっと大学受験の失敗を引きずってたんです。あの頃は眠れない夜もあった。
このままいけば彼らのように一流企業に勤めたり、医者や弁護士などのハイクラスな職に就くことも難しい。それで自分の強みをつくろうと決起し、税理士試験の勉強を始めたんです。
でもこれが全然面白くなかった(笑)。細かい勘定項目を記憶したり、帳簿の仕分けをやったりしたものの全く勉強がはかどらない。自分が好きなことだとは思えませんでしたし、これで高校時代の同級生たちとの差が埋まる気もしませんでした。勉強も手につかなくなった。そうしてすぐに挫折してしまったんです。
これから先どうしよう。どうにか人生の活路を見出したい。そんな風に悩んでいると、大学2年生の時に友人たちと海の家をやろうという話になった。最初は完全に学生のノリでした(笑)。僕は今後の人生のために何か挑戦しなければと焦っていたものの、さすがにこれは違うんじゃないかと。
その違和感とは裏腹に話はどんどん盛り上がり、結局オープンすることに。しかし、やはりそう甘くはなかった。案の定ノリで始めた学生ビジネス。これもあえなく失敗に終わりました。無茶なことだとは薄々わかっていたものの、僕はまた落胆した。当時は何から何までうまくいかず、若気の至りで空回りしまくっていた(笑)。
挙句の果てには手伝ってくれた後輩たちの給料すら払えない始末。後輩に申し訳ないと思いつつ、給料の支払いを待ってもらってました。一体自分は何をやってるのかと途方に暮れる日々でしたね。
―大学受験の失敗、税理士試験の勉強にも挫折、海の家もうまくいかない。学生ながらに、もがいていた時期だったんですね。
そんな時ひとつの転機が訪れました。未払いになっている後輩たちのバイト代を稼ぐためにアルバイトを探していると、NTTがフルコミッション営業を募集していたんです。内容はフリーダイアルの法人営業。そのバイトはお客さんからお申込書にサインをもらえれば即日入金でした。報酬も良かったので僕はそれに飛びついたんです。
すぐに営業チームをつくって必死で売りまくり、稼いだお金でせっせと後輩たちに給料を払いました。わき目も振らず働いていると、なんと僕個人の営業成績がNTTの西東京エリアでナンバーワンになったんです。大学生なのにNTT本社や営業代理店よりも僕のほうが売っていた。
たまたまですが、その時バイトを通じて関わっていたNTTのマネージャーは東大卒でした。東大を出た人にもビジネスの世界であれば勝てるかもしれない。営業職は成果で評価されるし、実力があれば学歴コンプレックスを克服できると思いました。あれは大きな自信になりましたね。人生学歴が全てじゃないぞと。
自分の力が社会に認められ、これなら自分で起業してもやっていけるんじゃないかと思うようになりました。そこで僕は、大学3年の秋にどうすれば起業できるかとゼミの教授に相談したんです。すると教授から「恵島は営業はすごいかもしれないけど、それだけだともったいないからインターネットビジネスを勉強したらどうか?スキルを掛け合わせると武器になるぞ」と言われた。
営業力があるだけじゃなく、インターネットビジネスにも精通していれば自分の強みになる。僕はそれを聞いて「なるほど!」と思いました。いくつか強みがあれば起業にも有利になるぞと。
こうして僕はインターネットビジネスをやるためにプログラミングを学ぼうと決意したんです。そしてエンジニアとして雇ってくれる会社を探した。プログラミング未経験でも新卒採用なら募集を出している会社はいくつかありました。そして僕は流通業向けのシステム開発をしているガルフネットコミュニケーションズという会社から、エンジニアとして内定をもらいました。
内定をもらってから就職するまでの間は、将来起業する時のため中小企業診断士の資格勉強をしましたね。予備校に通ったり図書館にこもる生活を1年間続けて、資本政策やもろもろの法律、銀行から借り入れするやり方などを学びました。
紆余曲折したものの、振り返ってみると大学初期は暗中模索の状態でした。そんな中たまたまフルコミッション営業のバイトに出会った。そして自信をつけたことで起業という目標ができ、その目標に向かって戦略的にスキルを身につけた。そんな大学生活でした。今でもその時の経験がとても役立っていると思います。あの時、折れずに頑張ってよかったと思いますね。
合わせ技でビジネスの世界を渡り歩く
―挫折しながらも戦略的にスキルを磨いたんですね。社会人になってからはどんなキャリアを歩んだんですか?
まず新卒で入社したガルフネットコミュニケーションズでは、2年半ほどエンジニアとして働きました。毎日がプログラミング漬けの日々でしたね。徐々にシステムも自分でつくれるようになり、当初ゼミの教授と話していたようなインターネットビジネスをするためのプログラミングスキルは身についてきた感覚がありました。
プログラミングが一定できるようになったので、後はそれを何と掛け合わせるか。僕は海の家など飲食業に興味があったので、飲食ビジネスを学んでそこにITを掛け合わせたビジネスができないかと考えるようになったんです。
そして飲食店など店舗ビジネス向けにコンサルティングを提供していたベンチャー・リンクという会社に転職しました。当時ベンチャー・リンクは飲食チェーンのFC展開などを支援しており、僕は全盛期の牛角を担当。スーパーバイザー(※管理者のこと)として約70店舗をマネジメントしました。
日本でも最大規模の焼肉チェーンでスーパーバイザーをしたことで、マネジメントのノウハウを学ぶことができた。そして急成長する会社を間近で見て、僕自身も自分で事業をやりたいという気持ちがどんどん強くなったんです。こうして2年半勤めたタイミングで独立することを決意。2004年8月にROIを設立しました。
【紆余曲折を経て、覆面調査サービスにたどり着く】
―創業時は何をしたんですか?
実は最初は何も仕事がなかったんです。ベンチャー・リンクで一定の成果を残せたこともあり、仕事がないまま独立してもなんとかなるだろうという感覚だった(笑)。しばらくして前職でご縁があった会社からコンサル依頼を受け、昼間はそれをやることになりました。
夜は名古屋の『かぶらや』という有名な居酒屋で、大将に頼み込んでバイトしてましたね。バイトを通じて飲食のことをより深く知ろうと思い、結局その生活を1年ぐらい続けました。だからROIの1期目の売上は昼間のコンサルフィーと夜のバイト代でしたね。
しばらくしてバイト先の大将から『かぶらや』の看板を貸してもらい、自分で新橋にお店をオープンしたんです。自分の店を持つのは楽しかった。また看板を売る権利ももらったので、いわゆるFC本部のように『かぶらや』を東京を中心に広めていきました。1社数百万のマージンで10社くらいに売りましたね。そのままそれらのお店の顧問にも就任し、お店で使う業務システムを開発したりしてました。
顧問をやる中で感じたのは、やはり飲食店は新規オープン時が一番大変だということ。どの加盟店も最初の立ち上げに一番苦労した。そこで僕は、なんとか新規オープン時からお客さんに来てもらえるような仕組みをつくれないかと考え始めました。
―どんな仕組みを考えたんですか?
QRコードを使ったシステムを開発したんです。お客さんがQRコードを読み込み、空メールを送ると店側にメールアドレスが届く。そうやって会員情報が蓄積されていき、会員にメールでプロモーションを打つことができるシステムです。来てくれたお客さんの情報がどんどん溜まっていく。お客さんとの関係性を深くすることができる。そんなサービスです。
すると偶然このシステムを知ってくれた大手ビールメーカーの方が、ぜひこのシステムを売らせてくれないかと言ってきたんです。僕は予想もしてませんでしたが、交渉の末にその大手ビールメーカーと独占販売契約を結ぶことになりました。彼らはQRコードシステムを自社商品として積極的に販売してくれ、結果として契約を結んで1年で150店舗に導入されたんです。自分がつくったシステムが広がっていくのは嬉しかったですね。
ただ、その時の社員はまだ僕ひとりだけ。嬉しい悲鳴ですが、これでは到底システムの開発やメンテナンスが追いつきません。そこでガルフネットコミュニケーションズで先輩エンジニアだった人に声をかけ、ジョインしてもらったんです。こうして僕が営業で先輩が開発という体制ができ、システム導入店舗数も順調に増えていきました。
―たったの2名で飲食店向けのシステムを広げていったと。その後はどうやって成長したんですか?
システム導入店舗数が200店舗を超えたあたりで、会員数も5万人ほど集まりました。そこでこの溜まった会員情報を活かしたビジネスができないかと模索したんです。僕はいくつかのビジネスアイデアを考えました。
まず最初に考えたのが成果報酬型の送客ビジネス。当時から存在した『ぐるなび』などのナビ媒体は、掲載料で課金されるため固定費が掛かってしまう。だから送客できた時だけお金がかかる成功報酬型を考えたんです。でも仮に大手企業が参入してきた場合に、大手のマンパワーや資金力には太刀打ちできない。一気にシェアを取られてしまうなと。それでこのサービスは断念しました。
次に考えたのが成功報酬型の求人サイト。この領域は当時リブセンスが出てきてました。このビジネスをやるにはSEOやWeb集客を身につけなければならない。でも僕はその領域に強いわけではない。リブセンスや潜在競合となる会社を想定すると、競争も激しくなる。そう思って、このアイデアも断念。そうやって色々と模索する中、最終的に行き着いたのが覆面調査サービスだったんです。
―覆面調査ですか。消費者がお店や商品を実際に利用して、その感想をフィードバックするものですね。
僕はベンチャー・リンク時代によく覆面調査サービスを活用してたんです。あれは牛角で70店舗のマネジメントをした時のこと。自分の身体一つで実際に全ての店舗を訪問することは到底できませんでした。そこで僕は効率よくマネジメントするために、実際に店舗に出向くことをやめて、オンラインMTGで各店舗をマネジメントしていたんです。
じゃあどうやって店舗の課題を把握していたかといえば、その時に使っていたのが覆面調査サービスでした。モニター(調査員)にその店舗で食事してもらい、その声を集めることで課題を把握する。そのうえでオンラインMTGでその課題について対策を練る。こうやって覆面調査サービスを使うことで効率よくマネジメントできたんです。外部の人間から指摘されることを嫌う店長も、実際に店舗に来てくれた客のお声は無視できませんから。
―既にある覆面調査サービスの市場で、どのように差別化しようと考えていたんですか?
実はベンチャー・リンクの時から、覆面調査サービスの価格が高いことを疑問視してました。ある時なんでこんなに高いんだろうと思って、自分でモニターをやってみたんです。するとモニターにわざわざ電話をかけて依頼してたり、雑誌に広告を出してモニターを募っているなどのムダに気がついた。
インターネットを使えばモニターにわざわざ電話で連絡しなくても、オンライン上でモニターとマッチングできる。また広告を出してモニターを募らなくても、QRコードシステムの会員5万人に対して告知すれば広告宣伝費もかからない。こうしてリリースしたのがROIの主力事業である『ファンくる』なんです。
バイアウト後も市場価値を高める努力は怠らない
―『ファンくる』を主軸としてROIは堅調に成長。そして先程お話を伺ったバイアウトがあって今に至るというわけですね。恵島さんは今どんなことに時間を割いてるんですか?
僕は週25時間くらい働いていて、その三分の二の時間をスタートアップスクエアに割いていますね。具体的には投資しているスタートアップとのMTGなどの業務です。残りの三分の一は飲食事業に使ってます。宮崎の実家近くにある焼肉屋の新メニューを考えたり、レトルトカレーを開発したり。まぁこれは半分趣味のようなものですが。
あとは6,000名規模のヨガチェーンを運営する会社で顧問をやっています。ここでは大手企業の内情を知ることができて勉強になってますね。M&Aということで言うと、これまでは売り手側の目線で考えることが多かった。どうすれば買ってもらえるかと。でも買い手側の立場で仕事をすることで、どんな会社を買いたいかを考えるようになりました。つまり買い手側の視点も持つことができるようになるんです。
そのヨガチェーンでの仕事が自分の中では一つのバロメーターにもなっているんです。正直、今は誰かから自分自身に対してフィードバックを受けることがなくなってしまいましたから(笑)。だからお山の大将にならないように、こういった大手企業の顧問をやり、その中でしっかり自分が価値を出せているかをチェックするんです。顧問の仕事には真剣に向き合ってますね。会社をバイアウトして満足しては良くない。自分の市場価値を高め続けなければ、世の中に置いていかれますから。
大学に進学することが弊害になる時代
―仕事に割く時間が25時間ということは、残りの時間はプライベートに割いているということですか?
そうですね。僕は2012年からマレーシアに移住していて、マレーシアと日本を行ったり来たりする生活を9年ほどしています。マレーシアに居る時は妻や二人の娘たちと過ごし、日本に帰国した時は宮崎の実家に帰って両親と一緒に居ることが多いかな。両親とテニスやゴルフを楽しんだり、一緒に温泉に行ったり。
あとトライアスロンが趣味なのでレースはよく出ます。海外旅行も大好き。海外でトライアスロンのレースに参加して、ついでにその国を観光することが多いですね。
今はコロナの影響で残念ながらどちらもできないけど、その状況が逆に良い面もあるのかなと思ってます。なぜなら人間は当たり前だと思っていたことが急になくなった時、その大切さを実感するからです。
たとえば普段は健康なんてあまり意識してなくても、何かの病気にかかると健康の大切さを感じますよね。それと同じです。病気が治ると幸せを感じるように、コロナが収束してトライアスロンや旅行ができるようになれば、その時はより一層幸せを感じられるんじゃないかと思いますね。
―子供の教育についてはどうお考えですか?
実はマレーシアに来た目的は半分以上が教育のためだったんです。僕には11歳と8歳の娘がいて、二人ともほぼマレーシア育ち。娘たちはインターナショナルスクールに通っていて、卒業生にはハーバードやオックスフォードなど、世界のトップ大学に進学した子たちもたくさんいます。
娘たちは普段から英語と中国語で会話し、グローバルな環境でも通用する人材に育っている。もちろん日本語も流暢です。このようにマレーシアには子育てに良い環境が揃っていますね。
とは言いつつ僕個人の考えで言うと、今の時代はトップ大学に行くことがそこまで重要ではないと思っているんです。むしろ苦労して勉強し、高いお金を払って良い教育を受けることは、人生において「ある種の弊害」にもなり得るなと。
―どうしてトップ大学に行くことが弊害になり得るんですか?
まず大学での学びは貴重なのですが、親の言いつけで良い教育を受けたばかりに、サンクコスト(投下した資金や労力のうち回収できないもの)から抜け出せなくなるんじゃないかと。
たとえばロースクールに進学したら弁護士になるという未来を捨てられない。親がお金をかけて良い学校に通わせてくれたから頑張ると言って、自分が「あ、これやりたくないかも」と思っても逆戻りできなくなるんです。
僕は「親に育ててもらったから頑張る」なんて悲しいこと言われたくない。あくまで自分が好きなように生きて欲しいし、誰かのために犠牲になろうなんて思って欲しくないんです。
―言われてみれば、お金があって良い教育を受けているのに不幸せそうな子供って案外多いかもしれませんね。
僕が一番大事にしていることは多様性を受け入れられる人間に育ってくれること。あとは女の子なので愛嬌がある子に育って欲しい。それくらいですね。間違っても親や周囲の人間のために自分がやりたくないことを嫌々やって欲しくはない。
ちなみに最近娘たちは起業家に興味を持ち始めていて、世界の長者番付トップ10を記憶してます(笑)。将来は起業家になりたいと言っていますね。まぁ、私はやめておけというのですが。
―なぜ起業家はやめておけというんですか?
起業家になるより起業家の嫁になれっていいます(笑)。その方が簡単だよって。だからゴルフとか社交ダンスとか料理とかを勉強したほうが早いよって。そしたら娘が私に「パパ頭いいね!そうする!」って言ったんです(笑)。我が娘ながら頼もしいですね。
選択肢の多い自由な人生を送りたい
―最後に今後のビジョンを聞かせてください。
これからも0→1でさまざまなことに挑戦したいです。今も面白いことをたくさん仕掛けています。その一つが日本一高級なカレーである『都城華礼(みやこのじょうカレー)』
です。これは宮崎牛を贅沢に使った1個1万5千円のカレー(笑)。メディアでも話題になり、TBSやローカル局から4社ほどTV取材も受けました。ゆくゆくはカレー以外にも他の商品をつくって、「日本一シリーズ」にしていきたいですね。
僕は人生を自由に生きたい。そのためにたくさんの選択肢を常に持っていたいんです。他人のために生きるのではなく、自分が幸せかどうかを考えて大事な人生を過ごしたい。家族や大切な人たちにも、そうあって欲しい。これからも自由で選択肢に溢れた、楽しい人生を送りたいですね。