株式会社ウィル・シード 創業者 / 文部科学省 トビタテ!留学JAPAN プロジェクトディレクター 船橋 力

出口のその先に 第7回

株式会社ウィル・シード 創業者 / 文部科学省 トビタテ!留学JAPAN プロジェクトディレクター 船橋 力

幼少期からマイノリティとして生きる。常に自らのアイデンティティに悩みながら、自分の存在意義を証明するために挑戦し続ける。3歳からアルゼンチンやブラジルで育ち、幼少期から異国の地でさまざまな苦難を味わった船橋。日本に帰国した後も「帰国子女のよそ者」という目で見られ、何処へ行っても疎外感を感じる日々。しかし、そんなマイノリティとしての体験が原動力となって、人との違いを受け入れたり、世界の貧しい人々に目を向けるきっかけとなった。新卒入社した伊藤忠商事では途上国のインフラ開発に携わる。そして2000年に独立し、教育・人材育成を行うウィル・シードを起業。2009年には世界経済フォーラム(ダボス会議)からヤング・グローバル・リーダーズに選出される。そして2012年8月、より大きな挑戦に向かうためにウィル・シードをバイアウト(会社売却)。2014年から官民協働海外留学創出プロジェクト『トビタテ!留学JAPAN』のプロジェクトディレクターに就任し、日本のグローバル人材を育成すべく国家プロジェクトを推進した。現在は地方の学生への教育機会提供にも乗り出す船橋。今回はそんな船橋の「出口のその先に」を聞いた。

ダボス会議と3.11の経験で人生を考え直した

―2012年8月に人材研修を提供するウィル・シードをバイアウト(会社売却)されました。そもそもなぜバイアウトしたんですか?

 自分の人生において、より大きな使命を担っていると思ったからです。ウィル・シードの事業は社会貢献性が高く、とても意義がありました。事業も順調に成長していましたし、頼もしい仲間たちにも恵まれていた。このまま10年続ければ、2倍3倍の成長ができるかもしれないと思っていたんです。

 でも一方でこのスピード感でいいのか。それで本当にウィル・シードが目指す「本質的に教育や業界を変える」という目的を達成できるのか。私は疑問を持つようになった。それと同時に、私がウィル・シードにいることが会社と自分の人生にとって最適解なのかと、ずっと葛藤を抱いていました。

 そもそも難易度の高い学校教育にも果敢に挑戦していたので、簡単ではありません。にもかかわらず、今思えば生き急いでいた気もしますが自分の理想は高かった。私は当時の会社の成長スピードや、既に存在するビジネスニーズに応えることが主となりつつあった事業内容に物足りなさを感じてました。

 すると2009年に世界経済フォーラム(ダボス会議)のYGL(※ヤング・グローバル・リーダーズ)に選ばれました。まさに青天の霹靂でしたね。選出を知らせるメールが届いていたのですが、英語のメールだったので気づかず削除してしまっていた(笑)。後日、ある先輩から「船橋、お前選ばれてるぞ!」と言われ、メールを見てみると宛先に世界経済フォーラムと書いてありました。それでやっと選ばれたと知ったんです(笑)。

 私はそのダボス会議で世界中のリーダーたちと交流し、視座が急激に上がりました。世界中のもっと大きな課題に意識が向くようになった。かなり強烈な刺激を受けましたね。それに伴って自分の中の焦りは益々大きくなっていったんです。

※YGL:ヤング・グローバル・リーダーズの略称。世界経済フォーラムが、世界中の多種多様な分野から選出する40歳以下(現在は38歳以下に変更)の若手リーダーのコミュニティ。

―ちなみに世界経済フォーラムのYGLってどうやって選出されるものなんですか?

 まず何人かの有力な人の推薦があって、そのうえで第三者機関が徹底的にその人について調べ上げる。そして世界経済フォーラムの事務局が選出するという流れです。最近は面接もあるようですが、私が選ばれた時は面接はなかった。本当に気づいたら選ばれてたって感じでしたね。

YGLの仲間たち

左からソフィアバンク代表の藤沢 久美氏、映画監督の河瀨 直美氏、船橋
パーティーにて(中列左端が船橋)
左から大和証券の山本 聡氏、宇宙飛行士の山崎 直子氏、ビジョナルの南 壮一郎氏、船橋
左から元大相撲力士の朝青龍 明徳氏、Facebookマーク・ザッカーバーグ氏の実姉アリエル・ザッカーバーグ 氏、船橋

妻と子供の再婚相手を探す気持ち

―本格的にバイアウトを考え始めたのはいつ頃ですか?

 2011年3月に東日本大震災が起こった後ですね。震災から3日後の夜、スカイプでYGLのメンバーと集まって被災地のためにできることを話し合いました。ウィル・シードも震災によって混乱の渦中にありましたが、私は被災地の状況に居ても立ってもいられなくなった。

 私は一時的に会社を離れさせてもらい被災地に向かいました。そしてスカイプ会議から3週間後に、被災地の遺児・孤児を中心とした被災度の高い子共たちに、奨学金やリーダーシップトレーニングを提供する『Beyond Tomorrow』プロジェクトを発足させたんです。

 ウィル・シードの収益の柱である新入社員研修の準備中でもあり、社員の中には会社を置いて被災地に向かう私を良く思わない人もいたかもしれません。私自身も当然葛藤がありました。しかし、でもその時はウィル・シードの経営者としてではなく、いち地球市民としての責任感から、被災地を救おうという意識が勝り、居ても立っても居られなかったんです。

 震災でウィル・シードの業績も打撃を受けました。その後私は経営者として奮闘し、なんとか会社の業績を立て直した。でも脳裏をよぎったことがあります。会社を放り出した自分は地球市民としては正しい行動をとったが、社長としては失格だなと。立て直しを終えたら会社を退くべきなんじゃないかと。

 また同時に、明日の命も不確実な中で後悔なく生きるために、以前抱いた葛藤にきちんと向き合おうとも思いました。つまり自分自身と会社の両方が、もっとスピード感を上げて社会貢献できる状態をつくろうと思ったんです。

 結局その後も紆余曲折ありましたが、しばらくしてウィル・シードを離れることを決断しました。ウィル・シードがより大きな器の協力を得て、より大きな社会的価値を提供できるようにしたい。そして私自身もウィル・シードを離れて、さらに大きな価値を提供できる道に進みたい。会社経営以外の方法で、社会により大きな貢献をしようと決めたんです。こうして2012年8月に河合塾グループの一員になりました。

―バイアウト後はどんな心境でしたか?

 言葉で言い表せないような不思議な感覚でしたね。自分で決断したものの、自分が創業した会社を手放すつらさ、呪縛から解放されたような気持ち、その二つが混在してました。

 売却交渉って会社を妻や子供にたとえると、新しい再婚相手(売却先)に、自分の妻や子供がいかに魅力的かプレゼンするようなもの。また妻や子供にも、相手の男性の素晴らしさを説明しないといけない。これは本当につらかったですね。しばらくの間ずっと傷心していました。

 自らの決断とはいえ、どんな理由を伝えても社員に理解されないこと。また言えないことも多く、社員との繋がりが断ち切られた感覚は辛かったですね。またその後は一切社員と会うことを断念しました。私の影響力もあり、次の社長がやり辛くなるだろうということもありますからね。

 でも一方で解放された感覚もあった。また会社を離れてみて自分は組織の成長を長期的に維持することより、0→1で新しいことを立ち上げる方が向いていると分かりました。しばらくして時間が傷を癒してくれ、次の挑戦に向かうエネルギーも湧いてきました。

官民の壁を乗り越え、一大プロジェクトを発足

―バイアウト後はどんな活動をしたんですか?

 グローバル、ソーシャル、イノベーティブという3つのキーワードで、より大きな社会貢献に繋がる取り組みを模索しました。たとえば開発途上国の子供たちに食事を届ける『TABLE FOR TWO』を含め、いくつかのNPOに参画したりしましたね。

TABLE FOR TWOのメンバー(左からエニグモ代表取締役CEOの須田 将啓氏、元Twitter副会長の近藤正晃 ジェームス氏、ソフィアバンク代表の藤沢 久美氏、船橋)

 そしてある日、文部科学省の下村大臣との会食に呼ばれたんです。その会食にはYGLメンバーが招かれ、下村大臣から「今の日本の教育の問題について遠慮なく語ってほしい」と意見を求められました。

 YGLメンバーはダボス会議で各国のエリートたちに気後れした苦い経験を語りました。世界中のエリートたちは語学力も堪能なうえ教養力、海外の情報量、ディベート力もある。彼らは会議の場でも主体的に発言します。その勢いに比べると日本人の我々は気後れしてあまり発言しないため、存在感が薄くなりがち。これは国家としての損失にもなりかねません。

 そういった場でも気後れしないような人材を育てるためには、意欲と能力がある若者に、出来るだけ早いうちからグローバルな環境で揉まれる経験を積んでもらうことが必要という話になったんです。

 そして「2020年までに1万人の学生を海外に送り出そう」、「自由度をあげるために税金ではなく民間の資金を募ろう」、「官民協働のALL JAPANで応援しよう」、「総額200億円の寄付を集めよう」など、会食の場でたくさんのアイデアが出た。こうして一夜にして『トビタテ!留学JAPAN』の構想ができました。

左から2番目が元経済産業副大臣の牧原 秀樹氏 、その右隣が船橋、右から4番目が元文部科学大臣の下村 博文氏、そこから右へ順にISAK代表理事の小林 りん氏、楽天創業メンバーの小林 正忠氏、ETIC代表理事の宮城 治男氏

 私たちYGLメンバーは、早速その年の夏季ダボス会議でトビタテ!の構想を発表しました。順調に賛同を得て、あとは実行に移すのみ。「で、誰がやるんだっけ?」という話に。するとYGLメンバーが示し合わせたように私のことを指名したんです。

 私は驚きましたが、ウィル・シードを辞めて次の挑戦をどうするか考えていた時に、こんな大きな国家プロジェクトの話が来るのも何かの宿命だと思いました。こんなプロジェクトは10年、20年に一度しかないだろう。またこのプロジェクトであれば社会に大きく貢献できるはず。

 そう感じ、私はコアメンバーになることを引き受けました。そして2013年11月に、霞が関の文部科学省にある一室でプロジェクト準備室が立ち上がった。翌年の4月から私は、『官民協働海外留学創出プロジェクト トビタテ!留学JAPANプロジェクトディレクター』に就任したんです。

―立ち上げはうまく行きましたか?

 正直、霞が関の中では肩身が狭かったですね。私は外部の人間として警戒されていたのかもしれません。また行政特有の慎重さもあり、会議が進展しないもどかしさも感じました。でも私もやるからには結果を出さなければいけない。そこで誰よりも安い給料、長時間労働を率先して受け入れ、自分でリスクと責任を負う意思表示をすること。また大臣への直接のルートを敢えて活用しないことなどの工夫で、徐々に霞が関の中で信頼を勝ち取っていきました。

 民間から寄付を集めることにも苦労しましたね。寄付の目標額は200億円。企業は志には賛同してくれるものの実際の寄付となると腰が重かった。そんな中でもソフトバンクの孫さんは別格でした。下村大臣が訪問すると、たった5分の説明で20億円の寄付を即決してくれた。孫さんも高校と大学時代にアメリカへ留学して人生を変える経験をした。だからたった5分の説明でプロジェクトの意義を理解してくださりました。

 最終的には三菱商事やトヨタ自動車、三井住友銀行など日本を代表する企業から寄付が集まり、2014年にトビタテ!は本格始動。その後日本の学生たちに多くの留学機会を提供し、日本のグローバル人材輩出に貢献しています。

トビタテ!留学JAPAN 日本代表プログラムの第1期派遣留学生壮行会
(前列右から3番目が船橋、前列中央に元文部科学大臣の下村 博文氏、その左隣にソフトバンクの孫 正義氏)
トビタテ!留学JAPAN の派遣留学生(中央が船橋)

幼少期からマイノリティとして生きる

―話は変わりますが、船橋さんは幼い頃から海外で育ったんですか?

 商社マンだった父の海外駐在に連れられ、3歳からアルゼンチンで育ちました。私の家族は敬虔なクリスチャン。「人のために生きなさい」、「社会をいろんな側面から見なさい」と、いつも言い聞かされて育ちましたね。

 教育方法も厳しくライオンが崖から子を突き落とすようなものでした。私は全く現地の言葉も分からぬまま現地の子供たちが通う幼稚園に入れられたんです。言葉の分からない私は周囲にまったく馴染めず、つらい日々を過ごしました。

 ある時など、通りすがりの人が私を見ると目を細め「Chino!(中国人の意)」と呼んだ。これはアジア人への蔑称なんです。

 私はとにかく環境に適応しようと必死にもがきました。そうやって幼いながらに異国の地で生き抜く処世術が身に付いたんです。小学校からは日本人学校に通って居心地もよくなった。

 しかし、そんな生活も長くは続きませんでした。ある日、家に時限爆弾が仕掛けられるという事件が起きたんです。

―え、家に爆弾が仕掛けられたんですか!?

 はい、時限爆弾が爆発して家が被害を受けたんです。私は幸いにも冬で毛布を被って寝ていたので、ガラスが飛んできてもケガはありませんでした。これは私が20歳になって父から聞いた話ですが、ちょうどその時会社で雇っていたガードマンを解雇したんですね。

 実はそのガードマンの派遣会社と警察がグルでした。ガードマンの雇用を守るため、あえてそういう事件を起こしていたんです。彼らの思惑通り、まんまと我が家はガードマンを雇い直すことに。この事件があってさすがに子供は危ないということになり、父を残して日本に帰国することになりました。

―そんな事件があったんですね。日本に帰国してみてどうでしたか?

 残念ながら日本でもよそ者扱いは変わりませんでした。今でも鮮明に憶えているのが初登校の日。先生からスペイン語で挨拶してくれと言われたんです。私はみんなと違うと思われたくなかったので、それがとても嫌でした。

 私は母国の日本でも疎外感を感じた。自分のアイデンティティは何なんだと、来る日も来る日も悩みましたね。一方で、自分から周囲の人と距離を置こうとする自分自身にも気づいたんです。たとえばクリスチャンであることを友人には打ち明けられず、ひた隠しにしていた。私は周囲からよそ者扱いされるだけでなく、自分も周囲に本心を見せない形で距離を置いた面もあったんです。

 でもある時から逆に承認欲求や目立ちたいという気持ちが強くなりました。気づけば私はクラスの学級委員や生徒会長、部活動の主将になっていた。疎外感の裏返しからくる承認欲求が、思春期の自分にとっての原動力でした。

 あとリーダーとして振舞う時にはクリスチャンの教えをしれっと活用したりと、自分のバックボーンがプラスに働くこともありました。不思議なものですね。

―日本でもマイノリティ感覚だったんですね。高校はまた海外に行かれたんですよね?

 私は日本で部活に打ち込みたかったのですが、高校からはブラジルに行くことになりました。私は、父から「ブラジルに来るか、日本に残るか選べ。ただし日本に残っても仕送りはしない」と言われてしまった。

 私はいち高校生で収入はもちろんありません。自分でアルバイトしながら日本の高校に通う選択肢もありますが、それでは部活もろくにできない。これは半ば強制的にブラジルに来いと言われているようなものでした。ただ、過去に海外体験がある自分がまた海外に行くことは、何かの使命か宿命だとも感じたんです。こうして私はブラジル行きを決めました。

 ブラジルでは現地のインターナショナルスクールに通い、その学校でも私は生徒会長に選出されました。そのインターナショナルスクールではブラジル人とアメリカ人の二大派閥があり、彼らはお互いけん制し合っていた。そこで私は彼らの間に入って調整役となったんです。お互いの仲を取り持つことで自分の存在意義を見出した。ブラジルで日本人の調和力を改めて実感しましたね。

 インターナショナルスクールでは猛烈に勉強しました。高校卒業後はアメリカの大学に行く選択肢もあり、日本に戻るか悩みましたね。私は色々考えた末に、兄弟も通っていた上智大学に進学しました。

恋人に見透かされた空っぽの自分

―大学ではどんな活動をしてたんですか?

 アメフト部に所属して部活動に明け暮れた大学生活でしたね。4年生の時は副主将も務めました。しかし最終年は怪我に苦しみ、怪我のせいで副主将なのに発言力を失うこともありました。アメフト部の幹部として、マネジメントの挫折体験もしましたね。そんな私に追い打ちをかけるようにショックな出来事が起きたんです。

―何があったんですか!?

 大学1年生の頃から3年半付き合っていた彼女に、突然フラれたんです。それもアメフト部最後の大会の初戦前日に(笑)。私は彼女から「あなたは人として優しいけど男として魅力がない」と言われた。私はあまりのショックにその言葉が頭から離れず、言葉の意味を何度も考えました。そして彼女の「男として魅力がない」という言葉は、「人としての軸がない」という意味だと解釈したんです。

 もともと私は要領よく社交的に振舞ってはいたものの、心のどこかで他人と自分の間に壁を作って生きてきた。たとえばクリスチャンである自分を隠したり。ただ彼女は私にとって一番身近な存在で、彼女には私の本性がバレバレでした。

 それからというもの、私は自分の軸をつくらなければと焦った。藁にもすがるような気持ちで、哲学や心理学、宗教学などの本を読み漁りましたね。あの時は自分の軸を見つけることにとにかく必死でした。

―最終的にどうやって自分の軸を見つけたんですか?

 アメフト部の活動を終えて自分探しの旅に出掛けたんです。セネガルやフランス、ASEAN諸国を回り、旅の最後には私の姉が運営しているNGOのスタディツアーに参加しました。スタディツアーでは、フィリピンのマニラとセブ島を訪問しましたね。

 スタディツアーの中でフィリピンのスラム街に泊まったり、さまざまな貧困状況や現地の人々の暮らしを見て回り、また自ら体験もしました。私はそこでフィリピンの孤児院にいる子供たちに出会い、彼らの寂しそうな目を見てシンパシーを感じたんです。きっと彼らも、私と同じように疎外感を感じて生きているんだと。

 フィリピンでは貧しいながらも、歌と踊りと仲のよい家族がいることで、みんな幸せそうに生きている実態も目の当たりにした。経済的には貧困だが、精神的には豊かでもあった。逆に日本は経済的に豊かですが、精神的に貧しい面もある。そんな実態を知ることができ、とても勉強になりましたね。

 とはいえ途上国は最低限のインフラや衣食住が整う経済状況がないため、悲惨な状況の方々がまだまだ多い。それを無くしたいと思った。私は途上国を救うことが自分の軸だと決めたんです。

大企業のコマでは自分の存在を証明できない

―大学卒業後は就職されたんですか?

 伊藤忠商事に就職しました。インフラプロジェクト部という部署に所属し、途上国のインフラ整備に携わりましたね。具体的にはフィリピンのセブ島で空港を整備したり、インドネシアのジャカルタで地下鉄をつくってました。また最初のプロジェクトがスタディツアーで訪れたフィリピンのセブ島での仕事で、驚きながらも宿命を感じましたね。

 途上国の支援ができて仕事のやりがいはあったものの、大きなプロジェクトの中では自分なんてちっぽけな存在。私の役割は会社の誰でもできるもので、私は一つのコマに過ぎませんでした。かといって大手企業で出世してプロジェクトの中心になるまでには長い道のりがある。私は早く自分の軸を元にして存在意義を証明したかったので、とにかく焦る日々が続いた。

 また別の問題意識として、同世代の方々が海外の貧困などに興味がないことも気になっていました。そういう私もフィリピンに行くまではそうだったので、当たり前なのですが。

 そんな悶々とした毎日を過ごしていると、ある日知り合いが「海外から来た留学生の集まりで体験型ゲームをするけど来ないか?」と誘ってくれたんです。そのゲームは途上国の貧困や格差問題を体感するものだった。ゲームは本当によくできていて、社会問題に関心がなかった参加者たちが自然と問題に意識を向けてました。こんな風に楽しいゲームにすれば人の意識を変え、当事者意識を醸成することができるのかと感銘を受けましたね。

 私は常々、エネルギッシュで優秀な人ほどビジネスに没頭するあまり社会課題に関心がないと感じていました。また、ちょうど私の大学時代の友人たちも会社勤めをしながら悶々としていた。私はこの2つの課題を解決できないかと考え始めました。

 そして彼らが悩みを吐き出せる第3の居場所をつくろうと考えました。そこでさまざまなイベントや企画、勉強会、そして社会構造を体験するゲームをみんなでやって、より多くの人に社会問題を認識してもらおうと。こうして、社会人2年目の冬に異業種交流会を始めました。

―それがきっかけとなって起業されたんですか?

 始めた頃は起業する気はありませんでした。会社の要請でインドネシアのジャカルタに駐在することになり、途上国支援に全力を注いでいましたから。異業種交流会の運営はオンラインで続けました。

 すると1997年にアジア危機が起こった。なんと私が携わっていた国家プロジェクトまで止まってしまったんです。今だったら信じられませんが、伊藤忠の株価も100円台に落ち込むほど経済が混乱しました。

 国家のプロジェクトが止まったり、伊藤忠のような大手企業でも株価が暴落する。そんな経験をして、私は何かあっても自分で生きていけるようにならないとだめだと痛感しました。また異業種交流会も3,000名規模のコミュニティに成長し、より本格的に教育を突き詰めたいという気持ちも大きくなっていた。その頃から頭の片隅で起業を考え始めましたね。

 最終的に決め手となったのは、会社からニューヨーク転勤を持ち掛けられたこと。ニューヨークは一度住んでみたいと思っていた場所で、総合商社では花形です。私はニューヨークに行くか起業するか、とても悩んだ。

 でも私は神様があえておいしいニンジンをぶら下げているんだと思ったんです。私は当時29歳。30歳になっても商社で勤めるということは、その先もずっと商社マンとして生きていくことだと思ってました。会社を辞めて起業するなら今しかない。そうやって悩んだ挙句、私は伊藤忠商事を辞めました。そしてウィル・シードを立ち上げたんです。

地方の子供たちに教育を届ける

―最後に現在の活動について聞かせてください。

 地方にいる子供たちに教育を届けるため、2020年10月に「あしたの寺子屋」という会社を設立しました。目標は全国1,000箇所に子供たちが学べる場所をつくること。1,000箇所というのは大手の塾が参入しない人口3万人以下の地域です。

 地方は公立学校が主流で、そこではどうしても平均値に合わせた教育になりがち。勉強から落ちこぼれた子や、逆に優秀な子も自分に合った教育を受けることが難しいんです。ひきこもりやDVを受けている子、発達障害の子も含めて、家以外に居場所がないのは大きな課題でもあります。

 こんなラストワンマイルと呼ばれる、最も情報や機会、選択肢がない子どもたちに、オンラインも活用した新しい教育の形を提供したい。そんな想いであしたの寺子屋では、日本中の同世代や世界中に留学した全国のトビタテ!卒業生と、オンラインで交流できる場を用意したいと考えています。

 彼らは世界中で面白い体験をした心強いメンター。地方の子供たちはオンラインを通じて、地元では触れられない多種多様なロールモデルと触れることで、たくさんのことを学ぶ機会を提供したいです。

 またオンライン部活も企画しています。たとえば虫部をつくって全国から虫好きを集めれば、ニッチな部活でも100人くらいは集まるはず。そういったマイナーな部活でも、学校外で同じ興味関心を持つ友人を見つけることができれば、その子の特徴を伸ばすことに繋がると思うんです。

 これまではトビタテ!で海外留学を促進してきましたが、これからはあしたの寺子屋を通じて地方にも教育機会を提供していきたいですね。

―ありがとうございました。


船橋 力(ふなばし ちから)プロフィール

プロフィール:船橋 力(ふなばし ちから)
1970年、神奈川県生まれ。幼少期をアルゼンチン、高校時代をブラジルで過ごす。上智大学卒業後、伊藤忠商事株式会社に入社。アジアで空港や地下鉄などのインフラプロジェクトに携わる。2000年にウィル・シードを設立し、企業および自治体、学校に体験型・参加型の教育プログラムを提供。2009年にダボス会議のYGL(ヤング・グローバル・リーダーズ)に選出される。2012年、NPO法人「TABLE FOR TWO International」理事に就任。2014年、日本のグローバル人材育成を目的とした官民協働留学創出プロジェクト「トビタテ!留学JAPAN」プロジェクトリーダーに就任。

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