IPOからバイアウトへの転換
―2007年にバイザー株式会社を創業し、2016年8月にバイアウト(会社売却)されました。どのような経緯でバイアウトに至ったんですか?
バイアウトを考え始めたのは2016年の1月頃です。当時バイザーはIPOを目指しており、Nー2(直前前期)のタイミングだったんです。
IPOを目指した一番の目的は外部からの資金調達でした。バイザーの既存事業は安定しているものの、僕はもっと色んなことにチャレンジしたかった。IPOで資金調達して既存事業をより早くスケールさせながら、新たな収益の柱となる新規事業に挑戦したいと思ってたんです。
ところが、ある時に監査法人と揉めてしまいIPOに遅れが生じそうになりました。その頃から自分の中にいろんな葛藤が生まれたんです。もし当初から描いていたようなエクイティストーリー(※)通りに行かなければ、準備に掛けた時間はムダになる。企業価値も大した額にならないかもしれない。
それにIPO準備には膨大なコストが掛かっています。私はその現実に葛藤しながら本当にIPOが最適な手段なのか毎日のように考え、本当にこれでいいのかと自問自答しました。そんな時に新たな選択肢として出てきたのがバイアウトだったんです。
※エクイティストーリー:資金調達の際に成長シナリオや事業戦略、資金の用途などを説明するもの。
―バイアウトを選択した決め手になったものは何だったんですか?
自分が創業した会社ではあるのですが、バイザーに創業時のようなベンチャー精神が失われたことです。僕はもともと0→1をやりたいという想いが強いタイプ。絶えずいろんなアイデアが浮かんで、どんどん新しいことに挑戦したくなるんです。しかしバイザーの顧客は自治体や警察、金融機関などの公的機関が中心であり、それに影響されてかバイザーの社員もだんだん役人的な気質になっていました。
新規事業を提案しても、どちらかというとネガティブな反応が多かった。新たな挑戦を閉ざされることが大半でした。次第に、「あれ?うちってベンチャーじゃなかった?」といった想いが頭をもたげるようになったんです。
またIPOすると株主の目も気にする必要が出てくるので、より新しい挑戦がしづらくなるという懸念もあった。社内が既存の事業ドメインを守るために硬直化し、僕自身「限界だな」と考えるようになりました。自分で創業した会社なのに、自分の居場所だと感じられない。どうにも身動きが取れない。もどかしかったですね。こうして悩み抜いた末に、バイアウトを選択したんです。そしてバイアウト直後の2016年秋にバイザーを去りました。
自ら創業したバイザーを退任
―実際にバイアウトして会社を離れた時の心境はどういうものでしたか?
ちょっと不思議な感情でした。もちろん大きな荷物を下ろせたという解放感はあったのですが、いろんなことに対して感情の不感症というか、ときめかない自分がいたんです。何を見ても食べても遊んでも、テンションやボルテージがMAXになるということがまったくない。
考えてみればバイザーでの最後の数年間はIPO準備を含めて毎日ヒリヒリした緊張感の連続でした。日々、一喜一憂しながらゴールに向かっていく高揚感があった。それが会社を離れてからは淡々と過ごすだけの毎日になったわけです。
いわゆる燃え尽き症候群のような状態でしたが、僕はまずそれを素直に受け入れようと思った。今は無理に点火しなくてもいい。スイッチを入れなくでもいいじゃないか、という心境でしたね。
ロシアでのワールドカップが転機に
―その後また事業へのモチベーションが戻ったきっかけは何だったんですか?
バイザーを離れた1年後にロシアで開催されたサッカーワールドカップです。僕はサッカーが大好きで、ビジネスからいったん離れたらワールドカップの期間中を現地で過ごすことに決めていたんです。しかもそれがロシアで行われるというのはこの上なく魅力的でした。
ワールドカップは9試合を観戦してロシアの様々な都市を巡った。現地で友人とも合流し、ロシアの人たちを含めて世界中の人たちと交流を深めるなど、毎日が本当に刺激的でしたね。
ロシアの人は見た目が少し怖いですが、みんなシャイでいい人が多い。それまでのイメージが一変しましたね。サッカーだけでなく色々な人と交流できたことで刺激を受けた。あの1カ月は僕にとって人生を変える最高の日々でしたね。
あのロシアでの1カ月間で自分の中のスイッチが入りました。世界の一大イベントで生まれるパワーを目の当たりにして、もう一度何かにチャレンジしたいという意欲が沸き上がってきたんです。
ロシアでサッカーワールドカップを堪能
バイアウト後に離婚の相談を多く受けた
―バイアウトのあと、米田さんは2017年に新会社を立ち上げました。現在の事業の中身を教えてください。
離婚者に限定したマッチングサービスを提供しています。バイアウト後、最初の2年間は知り合いの経営者からさまざまな相談を受けてました。バイアウトについて聞かれることが一番多かったですが、意外に多かったのが離婚についての相談。僕が第一線を退いたことでプライベートのことも相談しやすくなったんでしょうね(笑)。そこで2019年からこのサービスを開始したんです。
現在の社会では離婚した方がうつになったり、自殺するといったことがとても増えている。そして今や3組に1組は離婚するという統計が出ており、離婚は決して珍しいことではありません。にも関わらず離婚すると会社で立場が悪くなったり、生活が困窮してしまうといったことが多々ある。再婚しようとしても通常のマッチングサービスを利用しようとすると、離婚がネックになるという話もよく聞きますね。
だからたとえ離婚しても心身ともに健康で過ごせるように後押ししたいと思っています。離婚者も初婚の人を求める傾向があったり、離婚者に限定しない意向があることも分かってきたので、この春からサービスをより拡充していきたいと考えているところです。
バイアウトを見越して新たなビジネスに挑戦
―やはり0→1でさまざまな事業を立ち上げていくんですね。
僕はやっぱり0→1が好きなので、会社を大きくグロースしていくことについてはさほど興味がありません。自分がやりたいと思ったことが社会の課題解決としてフィットすることが確かめられればそれでOKなんですね。だからそれを繰り返していきたいという想いが強くあります。
その意味でも今年の4月からstair(ステア)株式会社という会社を新たにスタートさせます。サービス名は「stair」といって、高学歴かつ運動部に所属する学生に特化した就活・採用オファーサービスです。
対象は偏差値60以上の学部を有する大学に所属していて、かつサークルではなく運動部に所属している学生。彼らは就活に費やせる時間が一般学生に比べて3割ほど少なく、就職後のアンマッチというケースも多い。その結果、3年で離職する割合が高いというデータもあります。
―0→1でつくって、一定のところまで行ったらまたバイアウトするようなイメージでしょうか?
そうですね。やっぱり僕は0→1が好きなんです。事業を大きくした時に僕がまた興味を持てなくなるという可能性が高いと思うので。それは社員にとっても不幸でしょうし会社をグロースさせていくことが得意な人はいるので、そういう人たちに経営のバトンを渡したほうが会社の成長が早いという考え方なんです。
スノボーに明け暮れた大学時代
―話は変わりますが、米田さんのご出身はどちらですか?
生まれてから高校まで岐阜で暮らしていました。一人っ子で兄弟がいないので、小さな頃から一人遊びが好きな子で。だから今のステイホームはすごく得意なんです(笑)。小学生の頃まで、ひたすらLEGOブロックで遊んでいた記憶がありますね。
―中学の頃の思い出は何かありますか?
僕が住んでいた地域の中学校は、学年にクラスが2つしかありませんでした。父から「もっと揉まれて来い」と言われ、祖父母の家に連れて行かれた。その地域の、クラスが8つあるマンモス中学校に入学させられたんです。そうやって中学時代は両親から離れて祖父母と一緒に暮らしたのですが、とにかく自由でやりたい放題(笑)。毎晩遅くまで友だちと遊んでましたね。
このままだと完全に道を踏み外すと担任の先生から心配されるほどでした。3年生のある日、先生に呼ばれて高校や大学の素晴らしさを延々と聞かされたんです。僕も「これはまずいかも」と目が覚め、そこから猛勉強を開始。その甲斐あって高校はなんとか地元の進学校に進学できました。
―大学時代はどのように過ごしましたか?
ずっとスノーボードに明け暮れていましたね。大学を卒業するまでスノーボードのショップでアルバイトをしていて、そこのチームに所属して色んな大会に出ました。セミプロと言われる人たちと一緒にやりながら合宿にも連れていってもらうなど、スノボーに明け暮れた大学生活でしたね。
インターネット黎明期に起業を決意
―卒業したあとはすぐ就職したんですか?
卒業してアメリカでスノボーをしたり、1年ぐらいはふらふらしてました。そして日本に戻ってきてゼネコンに就職。父がもともと土木系の会社勤めから設計会社を立ち上げて独立してたので、その影響もあったのだと思います。ただ僕は営業志望だったのに、配属先は東京湾アクアラインの現場担当だった。そのせいで仕事へのモチベーションが上がらず入社後は悶々とした毎日を過ごしました。
結局ゼネコンは2年で退職。その後、設計用CADを提供するベンダーに就職してCADの販売を担当することになりました。当時Googleマップもまだない頃に、地図をCADで起こしてソフトを制作・販売するビジネスを主力にしていました。
仕事をしていく中、ある時期からインターネット黎明期が訪れたんです。その盛り上がりを見て、僕は大きな予算で一つの建築物をつくるといった仕事よりも、自分が作ったものをインターネットの力でn倍に広げたい。社会に大きく広げていきたいと思うようになった。それで自分でビジネスすることを考えるようになりました。
―どんなビジネスをしたんですか?
岐阜にUターンして、父親の会社で社内ベンチャーとして事業部を作らせてもらい、地図とITを融合したビジネスを始めました。地図データを活用していく、GIS(Geographic Information System)と呼ばれるもので、地図上にいろんな属性を載せていく。多彩なレイヤーを重ねることで、視覚的に利便性の高い地図が出来上がるというシステムです。
特に自治体などの公的機関から受注していこうという戦略でした。それから2~3年の間に着実な実績を作り、2007年に独立して起業したのがバイザーです。
サッカークラブの連絡網がヒントになった
―父親の会社で始めたということは、バイザーは岐阜で起業したんですか?
はい。岐阜県はベンチャー企業を優遇する制度やオフィスの提供などが充実していました。独立するにはいい環境でしたから先ずは岐阜で起業し、社内ベンチャーとして関わった数人を巻き込んでバイザーを立ち上げました 。
―バイザーのメール配信サービス『すぐメール』はどのように生まれたのでしょうか?
それはちょっとした経緯がありまして。2010年くらいまでGISを中心としたサービスを自治体などの公的機関に提供していました。そんなある日、同じベンチャー向けオフィスに入っている他社の仲間たちと、一緒にフットサル部を立ち上げようという話になったんです。
やがてメンバーの連絡網を作ろうということになり、その連絡網として一斉メール配信のシステムを自分たちで作りました。すると、ある知人との会話の中で、「最近は個人情報保護法が厳しいから学校の先生が生徒たちへの連絡網を作れなくて困っているらしい」という話があがった。生徒たちに何か連絡事項が発生した時に、先生が生徒1人ずつの家庭に連絡しないといけないという話だったのです。
そこで僕はフットサル部で作成したメール配信のシステムを学校でもうまく使ってもらえるのではないかと考えました。それが機能すれば先生の電話代もいらなくなり、メール1本で即座に連絡事項を伝えることができる。加えてメールを読んだか否かがすぐに分かる点も有用性が高いと思いました。
趣味で作ったツールが学校で役に立つことが分かり「横展開してn倍にしていけるのでは?」と考えたのが、一斉メール配信システム『すぐメール』でした。最終的にこのサービスは自治体の約3割のシェアを取るというところまで成長することができましたね。
バイザーの仲間たち
―そこからバイザーを売却した先ほどの話に繋がるわけですね。最後に米田さんの今後のビジョンを教えてください。
0→1のビジネスを生み出すことで社会課題をクリアしていくきっかけを創る。そういうきっかけになる0→1をたくさん自由に生み出したいというのが、僕自身のビジネスライフにおけるビジョンですね。これからも挑戦し続けるつもりです。