―米濵さんは約35年間にわたり経営者として第一線で采配をふるっています。この間、御社は何度かピンチに襲われ、そのたびに復活しました。どのように窮地と対峙してきたのですか。
米濵:「危機のときこそ上を向く」という姿勢を貫いてきました。たとえばバブル崩壊後の1994年、年商200億円規模だった当時に為替差損など約50億円の巨額損失を計上したとき。まず、大きな紙に自分の手で「挑戦・2000年に東証一部上場」と書き、本社内でもっとも社員の目につくところへ額に入れてドーンと貼りだしたんです。
―社内の反応はどうでしたか。
米濵:当初、経営悪化で意気消沈していた社員たちは真剣に受け止めていませんでした。しかし、業績が少し上向くと雰囲気がガラッと変化。「がんばればできるかもしれない」と思いはじめ、社員たちが明るくなったんです。それから6年後の2000年、宣言通りに東証一部への上場が実現しました。あのとき、仮に「黒字回復」などの短期目標を立てていたら、今日のような成長はなかったでしょう。目先の業績に一喜一憂せず、遠くを見つめて大きなビジョンを描いたから、当社はじまって以来の危機を克服することができたんです。
―その後、2006年に代表権のない会長に就任。しかし、3年後には社長に復帰します。その理由を教えてください。
米濵:業績悪化に歯止めをかけ、会社を立て直すためです。私が社長を退いた際、社員たちを別の視点から鍛えてほしいとの期待を込め、後任の社長を外部から招きました。新社長は一生懸命やってくれたのですが、デフレの影響で利益率が低下してしまった。上場企業の経営は厳しい。3年たっても落ち込んだ利益率を回復させることができなければ、経営者としての責任が問われます。それで異例の再登板となりました。
―再登板にあたって、葛藤はありませんでしたか。
米濵:じつは経営の第一線に復帰する気持ちは、毛頭なかったんです。図らずも社長復帰したきっかけは、すかいらーく創業者で尊敬する茅野亮さんからの忠告でした。茅野さんいわく、「抜本的な経営改革を成しとげられるのは創業家出身である、あんたしかいない」と。そう言われた直後は、「そんなものかな」と納得するような気持ちと「でも、改革に失敗したらどうしよう」という恐さで、なかなか決断ができませんでした。
―なにが決め手となったのですか。
米濵:苦悩した末に「危機を脱する本当の原動力とは、経営手法の巧拙ではなく、会社に対する想いの深さ、強さなんじゃないか」と悟ったことです。では、もっとも会社に対する想いが強く、再建社長にふさわしいのは誰なのか。そう考えてあらためて周囲を見渡しとき、自分以外に最適任者はいませんでした。初代社長で長兄の豪が始めた飲食店の手伝いを出発点として、私は50年近く当社の経営に携わってきました。ですから、会社はわが子同然。ほかの誰よりも愛していると断言できます。再登板すると腹をくくってからは「会社のことを隅々まで知り抜いている自分が失敗するはずがない」「自分が失敗したら、誰も成功させることはできない」という強い気持ちが心のなかにわき起こりましたね。そのとき、茅野さんがおっしゃった「あんたしかいない」という言葉の本当の意味が理解できました。創業家は会社の危機から逃げることはできないし、逃げてはいけないんです。
―まず、なにから着手したのですか。
米濵:まっさきに決めたのは、業績悪化の元凶だった不採算店50店舗の閉鎖。当時の店舗数の10%を超える大量閉鎖だったため、社員は2~3年かけてゆるやかに撤退すると予想していたようです。それを私は半年以内にすべてを閉鎖するよう命じました。それで役員たちの顔色が変わり、「これは本気だな」と危機感を共有してくれました。前社長時代に進めていた、デフレ対応の値下げもやめました。しかし、撤退や中止だけでは業績回復は難しい。反転攻勢の策が必要です。当社における切り札は、ちゃんぽんに使う7種類の野菜をすべて国産に切り替えることでした。それをアピールするため、通常の約2倍もの野菜を使用。容器から7cmの高さになるように野菜を盛りつけた「野菜たっぷりちゃんぽん」を新たに発売しました。これがお客さんから支持され、業績がV字回復したんです。でも大きな賭けでしたね。
―どういう部分が賭けだったのですか。
米濵:材料費が10億円程度アップすることです。社内の経費削減だけではコスト増を吸収しきれないため、商品単価の引き上げが必要だったんです。社内はもちろん、メーンバンクからも「値上げなんて、デフレの時代に逆行している」と心配されました。また、当社では1日約40トンの野菜を使用しています。それを安定的に調達するため全国の野菜産地と契約栽培のネットワークを構築し、物流網を整備する必要もありました。失敗したら、すべてがムダな投資になってしまいます。もともと、一番多く使用するキャベツは、長いところでは約30年間、契約農家さんとのおつきあいがあります。モヤシは自社工場で栽培しており、残り5種の野菜の国内調達に取り組むことになります。社長を退いているあいだ、社団法人日本フードサービス協会の会長として、農産物の産地など、全国各地をまわり、農家のかたがたと直接対話をしました。その際、「新鮮な野菜はおいしい」と改めて感動したのです。それに国産材料の使用は、われわれにとって使命でもありました。
―なぜリンガーハットの使命なのですか。
米濵:日本の食料自給率は世界のなかでも最低レベルにあるからです。これを解決するには多くの人に国産品を食べてもらうのが早道。ですから、自給率改善のために外食産業が果たすべき役割は非常に大きい。でも、国産材料に切り替えてビジネスとして成立した前例がないから、誰もやろうとしない。だったら当社が成功事例をつくってやろう。そうした想いがあったんです。国産材料を使えば、CO2を削減できるし、世界に通用するすばらしい野菜をつくっている国内の生産者のためになる。なにより、食の安全・安心を守ることができる。だから「大義は自分たちにある。無謀といわれようと、成功させるんだ」と社内に率直な気持ちを訴えかけました。すると驚くような反応がありましてね。感激しました。
―どんな反応があったのですか。
米濵:当社は店舗の現場で働く、約9,000名のアルバイトの学生さんやパートの主婦のみなさんに支えられています。そうした店舗スタッフたちから、「社長の話を聞いて感動した」「こんな会社で働きたかった」「日本のためにやるんだ」という賛同の声が続々と集まったんです。多くの店舗が「国産野菜への切り替えを絶対に成功させる」と決意表明のミーティングまで開いてくれました。いま振り返れば、「大義はわれにあり」「絶対に成功させる」という気持ちで全社一丸になれたことが、大きな成功要因だったと思います。
―継続経営を目指す経営者にメッセージをお願いします。
米濵:私は「細心大胆」という言葉を肝に銘じています。外食産業は店舗の清潔を保ち、いつもピカピカにしておかなければ、すぐに客足が遠のきます。悪気はなくても、ちょっとした気遣いがないばかりにクレームになることも。つねにお客さんの視点で考え、細部に目を光らせていなければ、どんな繁盛店でもすぐにダメになってしまう怖さがあるんです。その一方で、ビジネスを成功させるには、小事を気に留めることなく、大胆に攻めることも不可欠。細心と大胆のバランスを保つことが、継続経営の秘訣だと思います。それと、創業社長だからこそ公私を峻別すべき。交際費でもなんでも、お金のことで迷ったら会社の支出にせず、自腹を切るべきです。なぜなら、経営者はつねに周囲から見られているから。「創業者だから」「オレの会社だから」と傍若無人に振る舞うような経営者に人はついてきません。そんな会社が危機に陥れば、あっという間に幹部や社員たちは離れてしまうでしょう。平時から厳しくエリを正している経営者だけが、危機を突破できるんです。