―御社は創業から58年を超え、ここ5期連続で増収増益を果たしています。多くの企業が業績低迷に悩むなか、どうして成長し続けることができるのでしょう。
藤井:時代のニーズに合った製品を提供しているらです。近年の建築業界は、新築よりもリフォームの需要が多く、建物を長持ちさせるための建築塗材の需要が伸びています。また、東日本大震災の影響もあり、今後は「省エネ」「安全」「安心」への配慮が建物に求められています。そんななか、当社は国内初・世界初にこだわり、「不燃の断熱材」「鉄骨の意匠を活かす耐火塗料」「超低汚染型の塗料」といった付加価値の高い製品を開発しているのです。
―なぜ国内初や世界初の製品を開発できるのですか。
藤井:「無から有を生じる」という創業の精神が根づいているからです。もともと当社は、廃溶剤をリサイクルすることから始まった零細企業。その後、2度のオイルショックを経験したこともあり、石や砂など自然素材を使った無機質系塗料を開発してきました。資源に限りがあるからこそ、誰でも手に入るモノに着目。新素材の開発に活用することで、革新を起こしてきたのです。近年は「世の中にないものをつくる」ことを使命に、塗料以外の新しい化学建材の開発も強化。世界が求める機能性建築仕上材をゼロから生み出すため、日々研究、開発に取り組んでいます。
―藤井さんは、半世紀以上にわたって経営の最前線で辣腕をふるってきました。会社を長く続けるための秘訣はありますか。
藤井:まずは「ピンチをチャンスに変えていく」という強い意志をもつこと。そして、それを経営者が率先垂範することですね。会社を経営している限り、ピンチは必ずやってきます。そこで一歩たりとも逃げることなく、真正面から立ち向かうことが会社継続につながるのです。
―具体的な事例を教えてください。
藤井:1977年のことです。プレハブ住宅の草分けで、当社の得意先であった永大産業が突然倒産してしまいました。当時は永大産業専用の住宅塗料を開発しており、全国に営業所をつくって塗装まで担当。そのため、当社も約4,000万円の負債を背負うことに。大量の不良在庫も抱えてしまい、大打撃を受けました。シンガポールに永大産業の関連会社があるとの情報を得て、取引交渉のため急きょ現地に飛びました。しかし、そこも借金を抱えて倒産寸前だった。その夜、現地の責任者と酒を交え、ヒザを突き合わせて話しました。「大阪からシンガポールまで来て、一銭もとれずに帰るわけにはいかない」と。すると、イギリス資本の販売代理店を紹介してもらえたんです。 すぐにシンガポールに駐在しているイギリス人社長に会いに行ったところ、無事に代理店契約を結ぶことができました。交渉のタイミングがよかったんですね。昼間に行ったんですが、事務所でウイスキーを飲んどるんです。酔っ払っていたから、すぐにOKが出た(笑)。それがきっかけで、シンガポールに駐在所を設置することに。つまり、大口の取引先が倒産したことが、いち早く海外進出することにつながったのです。ひいては、東南アジア進出の足がかりになりました。
―ほかにどんなピンチを乗り越えましたか。
藤井:1993年に、大きなクレームを受けたことがあります。そのときは、10~20年経ったマンションの改修需要が全国的に増加。古いマンションの外壁は傷んでいるので、塗装する前に下地を補修する必要がありました。そこで、塗り替え専用の下地補修材を開発したところ、ヒット商品になったんです。ところが、販売して1年ほど経った頃、補修材を使用したところが剥離してしまった。そのため、全国から50件ほどのクレームが寄せられることに。原因を調査すると、検証テストが不十分なまま商品化したことが判明したのです。 ライバル企業に「エスケー化研は倒産するんちゃうか」と揶揄されるなか、私は問題のあったすべての現場に対応しました。そして、頭を下げ、全額補償を約束。そのうえで、修復してまわったんです。その償いは、2年ほど続きました。結果、なにが起こったかというと、当社の信頼性が以前より向上したんです。「エスケー化研は逃げることなく現場にきてしっかりと謝罪し、調査・補償のうえ無料で修復してくれる」と。それ以降、よりよい商品をより厳しく研究開発する体制づくりを徹底するようになりました。あのクレームがあったからこそ、現在のわれわれがあると思っています。
藤井氏が経営において心がけていることとは
―ピンチに対してトップが真正面から向きあった結果、チャンスに転じたのですね。藤井さんが経営において心がけていることはなんでしょう。
藤井:基本的なことですが、社員を大事にしています。「全社員で会社を大きくしていこう」というのが当社の経営方針。そのためには、社員がやる気をもって働ける環境をつくることが重要です。たとえば設立10周年の際、「全員参加の経営」という企業方針を明確に打ち出しました。また、8月と12月にくわえ、6月にも賞与を支給する制度をつくりました。これは45年経った現在でも続いています。また、私が100%保有していた持ち株を社員に分配しました。こちらは、当時あまり喜ばれませんでしたね。みんなキャッシュのほうがうれしいみたいで(笑)。しかし、古くからいる社員は、いまではだいぶ大きな財産を得たと思いますよ。
―待遇以外で社員をやる気にさせる取り組みはありますか。
藤井:がんばった社員は、必ずほめています。10周年以降、毎年「経営方針発表会」を行っているのですが、前年度で事業に大きく貢献した社員をその場で盛大に表彰するんです。表彰者が多いので、私が表彰状を読みあげるだけで1時間半ほどかかってしまう。その間、声がかれても途中で水は飲みません。海外の社員に対しては、英語や中国語で読む。けっこうな手間なのですが、ほめる行為は単に口頭で伝えるだけではダメ。本当に感謝の気持ちをもって、トップ自らが晴れの舞台で称えることが大事なのです。 こうした取り組みも、当社が躍進できたひとつの要素だと思います。
―御社は1970年代からアジアへ進出しています。アジア進出を成功させるポイントを教えてください。
藤井:原則として、100%出資の子会社を設立すること。そして現地で社員を採用して、現地でマーケティングを行い、現地で製品をつくる。つまり、共同出資のように他社の影響を受けることなく、すべて自社で経営判断を行い、スピーディーな事業を推進するわけです。
1984年、初めて中国に進出した当時は、現地の国営企業と合弁会社を立ちあげました。しかし、当時は法律上50%以上の出資ができず、経営の主導権は持てません。私が3ヵ月に一度、役員会のために中国に行くのですが、現地の社長がちょっと会議室から出て帰ってこないと、それで会は終わってしまう。そんな馬鹿げたことを何回も経験するうちに、やがて資金繰りが行き詰まって合弁は解消。フィリピンでも合弁会社を立ち上げましたが、うまくいきませんでした。
―経営思想の違いから、苦労したわけですね。
藤井:はい。しかし、これらの経験から学んだことは多かったですね。現地にまかせっぱなしではいけないし、日本のやり方を押しつけてもダメ。大切なのは、現地に優秀なスタッフを派遣し、スピーディーにPDCAサイクルを回して成果を出すこと。さらに、文化、気候などに合わせた現地第一主義を貫くこと。そうした対応を徹底することが、海外で成功するためには重要ですね。
―中小・ベンチャー企業の経営者に対して、企業を継続させるためのアドバイスをお願いします。
藤井:大事なのは「人の役に立つことをしっかりとやっていくんだ」という強い信念をもつことです。経営を続けていれば、悩んだり迷うこともあるでしょう。借金を返さなアカン場合もありますし、早く会社を成長させたいと焦ったりもする。そんななかでも、決して信念は曲げないことです。
―藤井さんもこれまで悩んだり迷ったりしたのですか。
藤井:もちろんです。当社の歴史を振り返れば、もともとは3名で始まった零細企業です。そこから失敗を繰り返しながら、なんとか全国展開のメドをつけ、中小企業に。そこから今度は上場を目指して、売上200億円に達して中堅企業になった。そして、海外進出を積極的に展開し、いまでは建築仕上塗材でアジアNo.1企業を目指し、成長を続けています。そうした過程において、絶対に信念を変えず、人の役に立つための技術や商品をつくり、それらを開発・提供するための人材をつくっていく。そうすれば、会社を支えてくれるお客さまをつくることができ、世間に信頼される実績をつくっていくことができます。
中国古典の易経に「山天大蓄」という言葉があります。これは山のごとき大いなる成長発展を遂げようとするならば、大いなる蓄積をしなければならないという意味。つまり、ヒト・モノ・カネ、技術力、商品力、信用力、試練対応力など、最初は「無から有を生じる」ことから始まりますが、その後は地道な積み重ね。人生と同じく、経営に近道なんてありません。ひとつひとつの積み重ねこそ、会社が永く続くための土台だと確信しています。