―御社は創業19年目を迎え、現在は日本を代表するインターネット企業へと成長しました。成長の秘訣は何でしょうか。
熊谷:簡潔に言えば、3つあります。①会社の「夢」を明確にすること、②その夢を信じる「仲間」を集めること、③ひとつの分野に経営資源を集中させて「一点突破」を図ること。この3つが成長の秘訣だと思います。
―では、1つ目の成功の秘訣から詳しく教えてください。なぜ「夢」の明確化が必要なのですか?
熊谷:人の平均寿命は70~80歳。誰もが死へのカウントダウンの中で生きています。今ここで皆さんとお話ししている間も、そのカウントダウンは進んでいる。まさに❝命を削って❞仕事をしているわけです。だからこそ、時間の使い方は非常に大事です。自分の時間、つまり自分の人生をいったい何に捧げるのか。それを「夢」として明確に定めるべきなんです。
―熊谷さんの場合、どんな夢を掲げたのですか?
熊谷:21歳の時、「何かの事業分野で圧倒的ナンバーワンになる」という夢を掲げました。その時点では、まだ具体的な事業分野は決まっていなかった。だから、その後も人生を賭けるべき事業分野を模索していました。ただ、当時から自分の目指すビジネスについて、漠然としたイメージは持っていました。それは鉄道ビジネスのイメージ。鉄道ビジネスは、線路を引いて電車を走らせるだけではありません。鉄道会社は鉄道沿線に住宅地をつくります。またターミナル駅に百貨店、郊外の駅に遊園地や動物園などをつくる。そうやって自社のつくったインフラ上で様々なサービスを提供し、一大企業グループを形成できるんです。たとえば東急グループ。東急電鉄を軸に東急百貨店、東急ホテル、東急不動産など、幅広いビジネスを展開しています。鉄道というインフラを軸に、多数の関連事業を展開し、高い収益を上げているわけです。ですから、圧倒的ナンバーワンになるためには、まず鉄道のようなインフラを押さえようと考えました。そして1995年。僕はインターネットに出会い、大きな衝撃を受けました。インターネットは人々のライフスタイルを根底から変えると思ったからです。また当時、インターネットの分野は誕生したばかりの市場で、まだ僕らがインフラビジネスを手がけるチャンスがあった。そこで、僕は「インターネット産業で圧倒的ナンバーワンになる」という夢を掲げました。先ほど話した「鉄道」というインフラに相当するのが「プロバイダ」や「サーバー」。そして、これらのインフラの上に様々なネットビジネスが乗っかっていく。インターネット分野で一大企業グループをつくるイメージがわいたんです。
―では、2つ目の成功の秘訣である「仲間」について教えてください。熊谷さんは、どうやって優秀な仲間を集めたのですか。
熊谷:仲間の集め方は、ひとつしかありません。ひたすら周囲に夢を語る。ずっと語り続ける。それしかない。もちろん、経営者は心の底から夢を信じなければいけません。はたから見れば、「まるで気が狂っているんじゃないか」と思われてしまうくらい信じる。そうすれば、夢を語る言葉はやがて"信念"へと昇華します。そして、その❝信念❞は人の心に伝わり、人を動かすんです。僕は15年前から、ずっと同じ夢を語り続けています。「インターネットに命を賭ける。この分野で絶対にナンバーワンになる」と。この夢に共感して集まってきてくれたのが、今の幹部たちなんです。たとえば、専務の安田と西山。安田はもともと公認会計士として、大手監査法人に勤務していました。でも僕の夢に共感してくれ、監査法人から当社へと転職してくれた。西山は当社に入社する前、自分で会社を経営していました。でも、僕と一緒に夢を実現させるため、経営していた会社をたたんで、当社に参画してくれたんです。
―現在、御社はWebインフラの分野で、圧倒的ナンバーワンを誇っています。どうやって圧倒的ナンバーワンになったのですか?
熊谷:当初、GMOインターネットはプロバイダ事業からスタートしました。プロバイダ事業に一点集中してナンバーワンになろうと。実際、プロバイダ事業は順調に成長し、当社はインターネットプロバイダとして日本初の株式上場を果たしました。でも、上場前からプロバイダ事業には限界を感じ始めていたんです。プロバイダ事業は「人数×単価」の商売。そのため、いつかは人口という壁にぶつかってしまう。ビジネスモデル上、いつか成長の限界が来てしまうんです。そこで、次のビジネスを探すため、1997年に僕はシリコンバレーに飛びました。インターネットビジネスの本場は米国。中でも最先端を走っているシリコンバレーに行けば、何かヒントが見つかるんじゃないかと。そんな淡い期待を抱いて、シリコンバレーの起業家たちを訪れました。実際、シリコンバレーにはヒントが転がっていました。そのひとつがデータセンター。今でこそデータセンターといえば、強固なセキュリティの近代的な建物を想像するでしょう。しかし、当時はまったく違いました。木のテーブルの上に数台のパソコンが置かれ、そのまわりに鉄条網が張り巡らされているだけ。それが原始的なデータセンターだったんです。そしてシリコンバレーの起業家たちから詳しく話を聞くうちに、これは大きなビジネスチャンスだと気づきました。インターネット回線の数は人口に規定されますが、Webサイトの数は人口に規定されない。だからデータを管理するレンタルサーバーには成長の限界がない。Webサイトが増えれば増えるほど、無限にビジネスが広がっていくんです。
シリコンバレーで見つけた次代のインフラビジネス
―当時、日本にレンタルサーバーなどのビジネスは存在していたのですか?
熊谷:ほとんど存在していませんでした。また存在していたとしても、当時はサービス料金が非常に高かった。大手電話会社が月額100万円くらいでレンタルサーバーを提供しており、とても中小企業には手が出せなかったんです。ですから、もし当社が安価でレンタルサーバーを提供できれば、圧倒的ナンバーワンになれる可能性がありました。そこで、僕らはレンタルサーバーに事業に集中しました。そして、月額わずか1万円のレンタルサーバーのサービスをリリースしたんです。その結果、多くの中小企業様から支持を受け、契約数は飛躍的に伸びていきました。そして現在、GMOインターネットグループはレンタルサーバーやドメインなどWebインフラの分野で、圧倒的なシェアを獲得しています。まさに一点突破で成長を遂げられたんです。
―「夢」「仲間」「一点突破」の3つが揃い、現在の発展に至ったわけですね。いま振り返ってみて、その成長の道のりは順調でしたか?
熊谷:いえ、必ずしも順風満帆じゃなかったですね。2006年に一度死にかけましたから。金融事業で400億円もの損失を出してしまい、倒産の危機に陥ったんです。当時、当社には2つの事業の柱がありました。「Webインフラ・EC事業」と「インターネットメディア事業」。僕はより経営を安定させるために3つ目の事業の柱が必要だと考えていました。そこで新たに立ち上げたのが金融事業だったんです。ちなみに金融事業として考えていたのは、ネット証券、ベンチャーキャピタル、ローン・クレジットなど。将来的には銀行まで手がけるつもりでした。そして2005年から2006年にかけて、ベンチャーキャピタル(現:GMOベンチャーパートナーズ)と証券会社(現:クリック証券)をゼロから立ち上げました。ただ、ローン・クレジット会社だけは他社を買収しました。ローン・クレジットは金利商売なので規模が必要。貸出残高が500億円を超えないと黒字にならないんです。そこで、中堅ローン・クレジット会社のオリエント信販を約250億円で譲り受けることにしたんです。
―2005年当時のオリエント信販は売上192億3,900万円、最終利益は13億9,600万円と業績は決して悪くありませんでした。どうして400億円もの大損失を出したのですか。
熊谷:ふたつの要因がありました。ひとつは、2006年1月の最高裁判決。「グレーゾーン金利は違法。過去にさかのぼって変換しなさい」東京都いう判決が下された。その後に過払い金の請求が急激に増え始めたんです。1ヶ月の利益4億円に対して、過払い金の請求は2億円程度。つまり、利益が半減してしまったんです。当社がオリエント信販を譲り受けてから1年も経っていない。それなのに、過去のオーナーが得た利益の分を当社が支払わなければいけない。これは受益者負担の原則からすると疑問でした。
しかし、グレーゾーン金利については、すでにメディアでも報道されており、当社にとっては織り込み済みのリスクでした。ただ、もうひとつが想定外でした。それは2006年10月の会計基準の改定です。ローン・クレジット会社は、グレーゾーン金利の支払い請求に備えて、会計上、引当金を積んでおかねばなりません。ただ通常の引当金って1年分なんですね。ところが会計基準が改定され、その引当金が❝10年分❞に改定になったんです。この改定を知り、僕は背筋が凍りました。これはヤバイと。当社の場合、約200億円の引当金を積むことになりました。その結果、自己資本比率は急激に低下。債務超過の危険性が高まったんです。債務超過になれば、いつ金融機関から融資の返済を迫られてもおかしくありません。つまり、黒字倒産の危険性が生まれたんです。もう目の前が真っ暗になりましたね。
―どうやってその危機に対処したのですか。
熊谷:まず僕自身の全財産を突っ込みました。まず2006年末、個人名義で当社に76億円の増資をしました。そして2007年8月には、個人でGMOインターネット証券(現:クリック証券)を48億円で買い取りました。僕個人の財産をすべてつぎ込んで、当社の財務基盤を支えたんです。それでも、まだ危機は続きました。このまま過払い金の引当を続けていたら、債務超過に陥りかねない。そこで2007年8月、ローン・クレジット事業からの撤退を決断したんです。問題の原因を根本的に取り除こうと。そして、250億円で買収した事業をわずか500万円で売却しました。苦渋の決断でしたが、背に腹は変えられません。しかし、この時点でも当社の自己資本比率は0.5%。本当にギリギリの数字でした。ちなみに、こんな危機的な状況でしたから、当時は様々な会社から買収の提案を受けました。
全財産170億円をつぎ込み会社の財務基盤を支える
―どんな買収の話があったのですか?
熊谷:外資系ファンドから「GMOインターネットを500億円で売ってくれ」という話が持ちかけられたこともありました。「今回の責任を取って僕の保有する株式を売却する」、そういう名目なら株主への説明も付いたでしょう。そうすれば、僕は売却益で得た数百億円を持って、ハワイでのんびり余生を過ごせる。数十億円もの借金を背負う必要もありません。でも、僕はこの買収話を断りました。やはりGMOインターネットは売れなかった。僕にとって本当に大事なものは、お金じゃない。やはり「夢」と「仲間」なんです。GMOインターネットグループの社員たちは、僕の掲げた「インターネット産業で圧倒的ナンバーワンになる」という夢に人生を賭けてくれている。そんな仲間を裏切れなかったんです。僕は借金を背負ってもいい。絶対に夢はあきらめないと決意しました。
―その後、どうやって危機を切り抜けたのですか。
熊谷:債務超過を防ぐため、様々な手段で資本増強を続けました。2007年12月には、ヤフーさんに約14億円の増資を引き受けてもらいました。さらに、僕の所有していた不動産を現物出資しました。現物出資による増資は、上場企業では異例のこと。それでも顧問弁護士や会計士などのサポートを受け、ギリギリのタイミングで45億円の現物出資に成功。債務超過を回避したんです。ここですべての損失処理を完了し、ついに危機を乗り切ることができました。
―間一髪で債務超過の危機を乗り越えたわけですね。この危機を乗り越えられた理由は何だと思いますか。
熊谷:幹部たちが会社を支えてくれたからです。彼らは朝から晩までディスカッションし、シミュレーションを続けた。どうしたらこの危機を乗り越えられるのか。もう1000通り以上のシミュレーションをしました。普通、会社が危機に陥ると、幹部って辞めていくものです。でも当社の幹部は、誰ひとりとして辞めなかった。こんなに嬉しいことはなかったですね。
―今回の危機を振り返って、熊谷さんはリスクの取り方についてどう考えるようになりましたか?
熊谷:危機の渦中、ずっと僕は考え続けていました。なぜ今回のような危機的状況を招いてしまったのかと。そこで気付いたことがあったんです。それは、自分の身の丈を考えずに、非常に大きなリスクを取ってしまったこと。GMOインターネットと僕個人の資産を合わせた限界ギリギリの金額を賭けてしまったんです。ギャンブルにたとえるなら、僕らは15年近く着実にチップを積み上げていました。でも、積み上がったチップをルーレットの大一番にすべて賭けて、全部持っていかれてしまった。つまり投資金額のリスクマネジメントができていなかったんです。ですから、今後はリスク管理を徹底します。限界投資額は資産の3分の1までに定めました。3分の1なら失敗しても倒産しません。もう二度と同じ失敗は繰り返しません。
―ローン・クレジット会社を買収する際、「GMOインターネットのすべてを賭けている」という認識はあったのですか。
熊谷:もちろんありました。しかし、当時はライブドアショックが起きる前。世の中はITバブルに沸き、いくらでも資金調達ができる空気がありました。また、それまで当社には大きな失敗が一度もなかった。ですから、僕もどこかで慢心していたのかもしれません。今回の危機を経て、僕も改めて原点に戻れたと思います。やはり大事なのは「夢」「仲間」「一点突破」の3つ。この3つを大事にしながら、インターネット産業で圧倒的ナンバーワンになりたいと思います。