株式を公開したことで会社への執着を手放せた
―宗次さんは1998年に会長職となり、2002年5月31日を以って代表権も返上。壱番屋(カレーハウスCoCo壱番屋)の経営から退かれました。その経緯を聞かせてください。
まず会長職に就いた話からしましょう。あれは株式の公開を決意したことがきっかけでした。1998年のある朝に株式を店頭公開(※)しようと思い至ったんです。
かねてより證券会社から何度も営業されてましたが、私はお山の大将でやりたいからと株式の公開を断っていたんです。でも私は公開を決めた時50歳で、食堂業も25年目になって500店舗の開店を迎えた節目のタイミングでした。そろそろ株式を公開してもいいんじゃないか。開かれた会社になって、もっと色んな人の協力を得ながら会社を末永く成長させよう。そんな風に思ったんですね。
妻にはその日の朝に株式の公開を考えていることを話しました。また店頭公開する直前直後に社長が交代すると、あらぬ憶測が飛び交うかもしれない。だから準備を始める今の段階で社長を交代しようとも伝えました。すると、妻はすぐに承諾してくれたんです。こうして私は会長になり、妻が社長に就任しました。そして、準備から2年が経った2000年に株式を店頭公開したんです。
※店頭公開:株式が証券取引所を経由せず、金融機関の店頭で売買される状態になること。
―株式の公開から2年後、2002年に浜島さんが社長に就任されました。浜島さんに経営を引き継ぐことはいつから考えていたんですか?
2001年の春頃です。私自身いつまでも健康でいられる保証もないし、有能な人に会社を引き継ごうと思って妻とも話合ってました。ちなみに息子がいますが継がせる気は一切ありませんでしたね。同族企業から脱却するために株式を公開したわけですから。
それで2001年5月の決算月に、浜島を専務から代表権のある副社長に昇格しました。彼には「将来は社長になって欲しい。その気になったらいつでも言ってくれ」と伝えた。すると浜島は真に受けてしまって(笑)。半年後、私たち夫婦に社長になりたいと言いに来たんです。半年なんてあっという間ですから驚きましたね。
でも浜島本人がその気になってくれたならそれが一番良いと。彼を社長にすることをその日に決めたんです。こうして2002年に浜島が社長となって私は代表権も返上。壱番屋の経営から完全に引退しました。
浜島の社長就任からしばらく経っても他の幹部や役員はもちろん、フランチャイズのオーナーや取引先の方々まで不安や反発の声はひとつもあがらなかった。むしろ期待されていました。至って順調なバトンタッチでしたね。
―宗次さんは自分が創業した壱番屋を離れることに心残りはなかったんですか?
副社長としての浜島の人間性と能力を見ていたので、全く心配はありませんでした。19歳の浜島をアルバイトとして採用した頃から、既に20年以上の付き合いになっていた。ずっと彼を見てきて、まじめで誠実なウラオモテのない人間だなと。経営力も申し分なく、彼のおかげで自分が退任して今日に至るまで、ストレスに感じることは何ひとつなかったですね。おかげで日本一の事業承継成功例となり、これは私の経営者人生における最大の喜びです。
自分が手塩にかけて育てた会社を離れるのは、確かに難しいと思います。でも経営者が会社に執着してはいけません。私は経営者としてやり尽くして完全燃焼していた。また壱番屋がパブリックカンパニーとなったことで自分の執着を捨てることができたんです。
もし未上場のままなら自分が元気な間は絶対に会社を離れない。誰にも渡さないぞ、という気持ちだったかもしれませんね(笑)。株式を公開したから踏ん切りがついたんだと思います。
私利私欲のために株を売らない
―ちなみに相続や株式譲渡についてどうお考えですか?
創業時から株はほとんど私たち夫婦で所有してきました。相続のために息子に株を譲り渡すことも提案されましたが、そんなことは一切しませんでしたね。息子は経営にも関与してませんし。とにかく自分たちの都合で株式譲渡するつもりはなかったんです。
―2015年12月にハウス食品による壱番屋のTOB(株式公開買い付け)が発表されました。宗次さんも持ち株を譲渡されて総額300億にのぼる買収額で話題になりましたが、どんな経緯でTOBに至ったんですか?
壱番屋の世界戦略で「100ヵ国2万店舗」を目指しており、それを実現するために力を貸してほしいと当時の壱番屋の社長に言われたんです。メーカーのハウス食品と飲食店舗展開が得意なココイチが組めば強力なタッグになる。世界中にカレー食文化を広めるためにその結びつきを強固にしたい、という意図でした。
ハウス食品さんの歴代の社長には大変お世話になっていました。ココイチで使わせてもらっているカレー原料もハウス食品さんのもの。実はいつか株を手放す時が来たらハウス食品さんに株を持ってもらおうと、夫婦の間で1、2回話したこともあったんです。ちょうど100店舗を突破した1990年ぐらいからかな。
ですから、ハウス食品さんとのTOBは何一つ障害は無く、超友好的なTOB成立でした。私は所有株を譲渡したことにより、もともと関心が強かった社会貢献活動の原資にすることもできました。
引退後のモチベーション
―宗次さんは72歳になった今も、昔と変わらず早起きを続けていると伺いました。会社を離れた経営者はその後の人生においてモチベーションの維持に悩む人も多いですが、なぜ宗次さんは変わらない生活リズムを維持できるんですか?
唯一最大の理由は、経営を通じた仕事が何より楽しいからです。私は会社を辞めた後も1日も休みたいと思いませんでした。実際に昨年も365日の中で1日も休みを取ってませんね。そして毎朝3時55分に起きてタイムレコーダーで起床時間を記録してます(笑)。自分の中では早起きを辞めたら終わる時だと思っています。ある種のバロメーターですね。
もちろん歳を取るにつれ体力は衰えます。精神的にも経営者だった頃のように大きなプレッシャーを背負うことはできないかもしれない。でも今も生活のリズムは変わりません。結局やってることが楽しいし、他人や社会のお役に立ちたいから続いているのです。決して自分のためではないですね。
―引退後の活動におけるモチベーションを教えてください。
私は早起きだけでなく、掃除、クラシック音楽普及、寄付活動などを行ってます。これらは私の趣味と言えますね。まず掃除に関しては壱番屋を経営していた時からやってます。今は名古屋に私が建てた宗次ホール近辺を毎朝掃除してますね。
名古屋で一番の目抜き通りに沿ったグリーンベルトや、歩道の花壇に多くの花を植えています。皆さんに喜ばれていますよ。花は生き物なのでちゃんと世話しないと死んでしまう。だから毎朝のつらい掃除も結構楽しんでやりますから、やめようなどとは思いません。街が花でいっぱいになれば心も豊かになりますし。通りすがりの人からもよく声をかけられますよ。
早朝から近所の掃除と花の水やり
―クラシックはどういう経緯で始められたんですか?
15歳の時にクラシックを聴いて衝撃を受けたのが始まりです。最初は壱番屋を引退した後に岐阜の自宅でサロンコンサートを開いてました。でも岐阜はゲストを招く時も少し遠くて不便だし、歳を取ったら都心で住みたいと思っていた。
ちょうどその頃、名古屋の中心地に75坪の土地が売りに出ていました。よくよく話を聞いてみると近隣の土地も買えるとのこと。メイン通りの角地で合計250坪の土地を買えることになったんです。
せっかく250坪の土地があるなら、自宅兼サロンコンサート会場ではなく本格的な音楽ホールを建てようという話になりました。それで思い切って宗次ホールというクラシック専用ホールを建て、私ども夫婦はその上階に住むことにしたんです。
クラシックをやるモチベーションは、まずクラシック自体が素晴らしく色褪せないものなので少しでも愛好家を増やすこと。クラシックを聴くと心が豊かになりますからね。それと音楽家が活躍できる場を提供したい。クラシックは営利目的でやるには厳しい世界で、せっかく大学でクラシックの演奏を学んでも聞いてもらえる場所が少ないんです。周囲の人の応援や支援があって、なんとか演奏活動が続けられる。そんな苦労しながらも頑張っている音楽家のために、この活動を続けていきたいですね。
自分の資産がなくなるまで寄付する
―寄付についてはどうでしょうか?宗次さんほど寄付をされている方は、なかなかいないと思います。
寄付は壱番屋を創業した翌年からやってます。まだ自転車操業で4店舗目をつくった時のこと。給料を払うお金が70万円ほど足りず、妻がその地域の信用金庫で100万円借りてきたんです。
100万円のうち70万円は給料の支払いに充てて30万円が残った。私たち夫婦はその中から10万円ずつを、新たに店舗を出した地域と、創業店でお世話になった地域の社会福祉協議会に匿名で寄付しました。
引退後は2003年にイエロー・エンジェルを立ち上げて本格的に寄付活動を開始した。私たち夫婦には、私個人、妻個人、そして私と妻で共同保有している計3つの資産があります。妻は息子のために少しは資産を貯めているようですね。でも私個人の資産は全て寄付で使い切る予定です。家族にも了承を得てます。
―宗次さんは寄付について、どのようなお考えを持っていますか?
寄付というと多くの人は負担に感じ、何も自分がしなくてもと思いがちですが、寄付とは助け合いなのです。今困っている人や救いを求めている人が目の前にいたら、何とか助けてあげよう。誰しも子供の頃から教えられたことなのです。
それに寄付はとても良いものなんです。自分で単なる消費にお金を使ってしまうより寄付された人の人生に貢献する有意義なお金になりますからね。私は経営者にとって寄付は義務だとも感じています。
大抵の会社は経営理念では立派なことを言うけれど、実際は自社の利益追求しか興味がありません。私は経営姿勢においても寄付によって社会に還元することは大変重要だと思いますね。
ちょうど今も『こども応援基金』という取り組みを始めようとしています。今多くの母子家庭や父子家庭が生活に困窮している。親は一食にしてでも子供に食べさせたり、電気代を払うこともままならない。ましてや塾に行かせる余裕なんてない家庭が一杯あります。そんな子供たちを週2、3日でもフリースクールに通わせてあげる。そして目標があれば奨学金も出してあげるような取り組みをやり始めています。
以前よく言われていた、「経常利益の1%は社会に寄付をする」という企業のあり方。今そんな会社がどれほどあるでしょうか。不思議なほど少ないと思います。
―宗次さんはどうしてそんなに他者のために頑張れるんですか?
すべては感謝の気持ち。それに尽きます。私は幼少期から孤児として育ち、電気がなく真っ暗闇で過ごしたり、雑草を食べて飢えを凌ぐこともあった。とても苦労したからこそ、少しのことでも感謝の念が込み上げてくるんです。
人間に生まれただけでラッキーと言える私は、そんな環境をつらいと思ったことは一度もなかった。それどころか、ギャンブルに明け暮れる養父を喜ばせたい一心でパチンコ屋でシケモクを拾い集めていました。それを吸って喜ぶ養父を見ると私は嬉しかった。誰かの役に立って自分がここに居ていいんだと思えるだけで、私は十分幸せだったんです。
妻と結婚してからは人生がもっと明るくなりました。それまでは不動産会社に勤める普通のサラリーマン。そんな私が社交的な妻と出会ったおかげで日銭商売の喫茶店経営にも踏み切れたんです。カレーに出会えたもの妻のおかげ。本当に私の人生を180度変えてくれた妻には感謝しきれませんね。
アフターコロナは経営姿勢から見直して欲しい
―最後に宗次さんから経営者にメッセージをいただけますでしょうか?
特に飲食業界はそうですが、コロナで国から補償を受ける個人や会社も多いと思います。もちろんケースバイケースなので一概には言えませんが、私に言わせればおかしな話ですね。
お店を開けると感染が拡大し、そうなるとまたお店が開けられなくなる。だから自粛するのは当然なのに、なぜ補償がセットなのでしょうか。少なくとも補償をもらうことを当たり前の権利のように主張するのはやめて欲しいと個人的には思うのです。自分の子供や孫の世代にツケが回ることも気掛かりです。
経営者はコロナに限らず幾多の真逆の事態に備えておくこと。いざという時に慌てない。従業員や家族を守るためにも、常日頃から経営や生活に必要なストックを準備しておくこと。要は経営も人生も全て「自己責任」ということです。
アフターコロナは自転車操業をよしとせず、経営に降りかかる「まさか」に備えて経営資源を蓄積する。そしてその中から少しでも困っている人に目を向けて、寄付してあげて欲しい。ぜひ経営姿勢を根本から見直す良い機会にして欲しいですね。