肩書にこだわりなし。人間一人じゃ何もできない
―高橋さんは自身で創業したフィル・カンパニーの代表を2017年に降りて、2018年には役員からも退任されました。そもそもどうして退任されたんですか?
実はIPO前から、いずれ社長を交代すると決めていて、現社長の能美さんとも話し合っていました。私は立ち上げなどの創業期は向いているけど、経営に関しては能美さんの方がはるかに優れている。IPO(株式上場)までは自分がコミットするけど、その後の経営は能美さんに任せた方が会社の成長は早いと判断しました。
私は、人には向き不向きがあると思っています。それに、もともと私は社長という肩書にこだわりはありません。できる人ができることをやればいい。自分は事業を作って走るところは向いている。だけどメディアに出たり、長期的に成長を維持する経営は苦手です。
―高橋さんは起業家タイプで、能美さんは経営者タイプなんですね。高橋さんのように、頭では分かっていても、なかなか割り切れない人も多いと思います。
私自身、学生時代からベンチャーをやっていて、数多くの挫折を経験しました。だから自分一人じゃ何もできないと痛感していました。
それにベンチャー経営は役割分担だと思っています。いかに自分と違った能力のある人を集め、ひとつの目標に向かっていくか。自分の強みを活かす場所を会社で確立することが大切です。
―起業家タイプだと、IPOではなくM&Aによるバイアウト(会社売却)を考える経営者も多いと思います。その方が創業者としてはキャッシュも多く手元に入るし、経営の手離れもいいと思うのですが、バイアウトは考えなかったのですか?
創業時は事業継続を考えており、Exitは考えていませんでした。その後エクイティ(株式で集める資金)を入れてから、基本的にIPO一本で考えていました。でも、実は一度だけバイアウトが頭をよぎったことがあります。
忘れもしない2015年の夏です。それまでIPOに向けて、文字通り死に物狂いで働いていましたが、当時の主幹事証券からIPOの無期限延期を切り出されました。一気に頭の中が真っ白になりましたね。
当時すでに株主も80名以上いて、その責任もあるのに未来が見えない。どうすればいいんだろう。その時にバイアウトせざるを得ないんじゃないかと思いました。
最終的にはSBI証券の方に電話で相談して、主幹事証券をSBI証券に変更しました。そして、2016年11月に東証マザーズに上場しました。
キャピタルゲインは借金返済に!?
―IPOをして莫大なキャッシュが手元に入ってきたかと思います。今までの生活と何か変わりましたか?
何も変わっていません。当時私には借金があったので、その返済に充てました(笑)。皆さんが想像するような裕福な感じではないですよ。もちろん借金返済後に多少のお金は残りましたが、昔から物欲がないので、生活には何も変化はありませんでしたね。
愛する家族、信頼できる仲間、夢や目標。一つでもあれば生きてて幸せですし、三つあれば人生最高じゃないですか。もちろん生活するうえで最低限のお金はないとつらいですが、人の幸せはお金だけでは買えませんよね。
IPOして、後に代表を退任して良かったなと思うのは、心のExitができたこと。借金からの解放だけでなく、プレッシャーから解放された。嬉しいというよりも、大きな責任を果たせてホッとしたというのが正直なところでした。
バックパッカー。学生ベンチャー失敗
―話は変わりますが、高橋さんはもともと長野出身ですよね。
長野県の安曇野(あずみの)生まれです。でも、生まれてからほとんどは関西で育ちました。実家は大阪の堺で、父親の仕事の関係で福岡や札幌でも過ごしましたが、一番長いのはやはり大阪です。中学と高校は奈良にある西大和学園に通い、大学で一橋大学に入学して東京に出てきました。
―大学時代は何をされてたんですか?
学園祭の実行委員やラグビー、格闘技、国際交流サークルをしてました。あと時間を見つけてはバックパッカーとして海外を旅していましたね。東南アジア、アメリカ、イギリス、東ヨーロッパなど、世界各地を周りました。大学時代は本当に自由奔放に過ごしました。
―海外がお好きなんですね。初めての海外経験はいつですか?
昔住んでいた大阪の堺市が、タイと国際交流のプログラムをやっていて、小学校5年生の時に2週間ほど交換ホームステイをさせてもらいました。当時のタイは、まだ吉野家も伊勢丹もない時で、タイ国王の前で『上を向いて歩こう』を歌ったりしたんです(笑)。その原体験が、その後頻繁に海外に行くきっかけになりました。
バックパッカーといっても旅するお金は必要です。何とか世界中を旅しながらお金を稼げないか考えて、大学2年生の頃からビジネスの真似ごとを始めました。ビジネスといっても、海外に旅行に出かけて現地で雑貨を購入して、それをフリーマーケットや学祭で売っているような程度でしたが。
その時にビジネスの楽しさに目覚めました。ビジネスって、関わる人みんながハッピーになる。私は好きな海外を旅してお金を稼ぎ、現地でモノを買って現地の人に喜ばれ、日本でモノを売ってお客様に喜ばれる。ビジネスって凄い。私は高校生の頃までシュリーマン(※)に憧れていました。海外を渡り歩き、自らのロマンに賭けてみたい。そんな生き方に憧れたんです。
※ハインリヒ・シュリーマン:ドイツの実業家であり考古学者。外国貿易で財を成した貿易商。ギリシア神話に登場するトロイアやミケーネの実在を証明するため遺跡を発掘し、あの『トロイの木馬』を発掘したことで有名。
でも、ビジネスをしてみて分かったのが、お金の管理の難しさ(笑)。ビジネスをやるなら、お金の管理ができないといけない。それは当たり前なのですが、私は細かいことは少し苦手だったんです。だからそれを克服しようと思い、大学では管理会計のゼミに入って、公認会計士の勉強もしてました。
でも、公認会計士の勉強は途中で挫折して、大学の仲間と会計ソフトの事業を起こしました。ちょうど時代は1999年、ビットバレーの時代。渋谷を中心に若者が有象無象にネットベンチャーを立ち上げて、世間の脚光を浴びていました。そんな姿を横目に見ながら、自分たちも何かしたいと思いました。それで一橋大学の3人の仲間と、企業向けに倒産防止ソフトウェアを企画販売するベンチャーを立ち上げたんです。
私は営業担当として駆け回りましたが、なかなかビジネスは上手く軌道に乗らない。冗談みたいな話ですが、倒産防止ソフトを売っていた自分たち自身が、最後は倒産しかかってしまいました(笑)。若気の至りですね。
―その後に新卒でオリックスに入社されたんですよね。どうしてオリックスを選んだんですか?
銀行だと土地を担保にしてお金を貸しますよね。でもオリックスはリースを中心としたノンバンク。金融ビジネスを学ぶならノンバンクの方が、人や事業で判断する融資を学べると考えました。
でも正直オリックスは長く続きませんでした。普通の会社員生活が自分の性格に合っていなかったのかもしれません。ちょうどアメリカで9.11同時多発テロも起こり、もしこのまま死んだら後悔するだろうなと。それで会社を退職し、アメリカの公認会計士資格を勉強しつつ、土日は海外の品を売る自営業を再開しました。
人生、どん底の時
―当時はどんなモノを輸入販売していたんですか?
メキシコ民族衣装のポンチョ、タイのシルバー雑貨、フィリピンのビリヤードのキューなど、ほんと様々ですよ(笑)。でも、ある商品の在庫をたくさん抱えてしまったうえ、株でも損をして借金を抱えてしまいました。なんと支払い金利も年利で28%くらいあったので、金利を返済しても元本が減らず大変でした。自分の人生の中で最悪の時代に突入したんです。
昼間は会計の会社で働き、夜はアルバイトで稼ぐ。つらかったですね。自分は何のために生きているのか。人間、最後はどうせ死ぬんだ。一度きりの人生、本当の幸せとは何なのか。自分とトコトン向き合いました。向き合わざる得ない状況でもありましたし。
今から考えると、自分の軸はこの時にできました。そう考えると、あながち最悪な時期でもなかったのかもしれません。後の自分の人生を考えると、深く考え、自分と向き合えた良い時間でした。
いよいよフィル・カンパニー創業
―その後にフィル・カンパニーを創業したんですね。
2005年6月に友人と2人でフィル・カンパニーを共同創業しました。ちょうど私が27歳の時ですね。資本金1万円、友人のアパートの一室でスタートしました。
最初のきっかけは、共同創業者の松村から会社を作りたいと相談を受けたことだったんです。当時、松村はある家具の会社から業務を受託していて、その会社のいちプロジェクトとして「駐車場の上に店舗を作る」プロジェクトがありました。偶然にも、その会社で私の従兄が経営企画室長をしていて、そのプロジェクトを委託されたのが松村でした。
でもしばらくして、その家具の会社は経営難に陥ってしまったんです。同時にそのプロジェクトも頓挫してしまった。でも私自身、このアイデアがずっと気になっていました。なぜなら私も昔モノを売っていて、ずっと売り場に困っていたからです。もし駐車場の上に空中店舗ができれば、そんな悩みを解消できる。もちろん貸し手である土地オーナーにとっても、更なる収益獲得というメリットがあります。これは、まさに「三方良し」だと思いました。だから駐車場の上に空中店舗を建てるという素晴らしいアイデアを、なんとか実現させたかったんです。
―まず何から始めたんですか?
空中店舗を建てるための土地探しから始めました。でも、過去にない新しいアイデアはなかなか受け入れてもらえず、最初は誰も土地を貸してくれませんでした。不動産の世界は信用第一なので、見ず知らずの会社には土地を貸してくれないんです。やはり実績が何より大事と身に染みて感じ、まずは1件でも空中店舗を建てて実績を作ろうと思いました。
しばらくして東京駅の近くに駐車場1台分、たった10坪の土地を1年間だけ借りられることになったんです。ただ、そんなに短い期間で入居してくれるテナントは到底見つからず、やむなく自社オフィス兼ショールームにしました。そしてどうせならお洒落な建物にしたかったので、全面ガラス張りにした。でも、屋根までガラスで作ったので昼間はサウナみたいに暑かったです(笑)。こんな具合で、最初はドタバタの立ち上げでした。
その後は何とか1つ実績を作ったことで、徐々に土地を借りられるようになりました。ただ、最初に建てた4件の空中店舗は全て数年以内に解体した。本当は50年くらい使えるのに、長期間で借地できないために解体費用をかけて取り壊さないといけない。せっかく建てても、投資回収する前に取り壊し。この繰り返しでしたね。キャッシュフローはいつもギリギリで、かなりきつかったです。
―そこから、どう成長したんですか?
三つほど転機がありました。一つ目の転機が2009年のリーマンショック。オフィス需要やマンション需要が激減し、土地オーナーがビルやマンションなどの大型投資に足踏みし始めた。かといって土地を駐車場にするだけでは勿体ない。そこで「駐車場の上に空中店舗を建てて、そこにテナントを入居させることで更なる収益をあげる」という我々のビジネスが注目を浴びたんです。
二つ目の転機は、ちょうどリーマンショックの頃に能美さんが参画してくれたこと。実は立ち上げ期のテナント開拓は闇雲なアプローチで、とても非効率でした。でも、能美さんの参画でそれが大きく改善されたんです。
もともと能美さんは大手リラクゼーション会社の役員をしていて、テナント出店に精通した「テナントの目利き」。その目利きのノウハウを活かして、土地に親和性がありそうなテナント候補を予め絞り込みました。つまり「もしこの土地に空中店舗を建てた場合、こんなテナントが入居すれば収益が見込める」という絞り込みができるようになった。
詳細な店舗の収益予測を算出し、まずテナント候補に入居を持ちかけました。すると収益見込みが可視化できているため、テナント候補の方も入居にゴーサインを出しやすい。テナントの入居が予め分かっていれば、土地オーナーも前向きに投資してくれる。
その後は先にテナント候補から入居の意向を得たうえで、土地オーナーに営業するようにしました。その甲斐あって商談もトントン拍子に進みましたね。
三つ目の転機が「初期テナント誘致保証」というサービス。先述の空中店舗の収益予測を繰り返していく中で、予測の精度がどんどん高まった。おかげでテナントを誘致するのがだいぶ楽になりました。そこで思い切って土地オーナーに「初期のテナント誘致を保証する」というサービスをデフォルトで提供することにしたんです。
この「初期テナント誘致保証」によって、安心して投資できると土地オーナーから好評を得て、無事に事業を成長軌道に乗せることができました。このサービスは今でもフィル・カンパニーの大きな強みになっています。
明るい未来、幸せな社会を
―退任されてからのカンボジアの活動についても、伺えますか?
2020年2月に国内外の金融関連企業への投融資を行うファルス株式会社を設立し、そこで代表を務めています。いま力を入れているのはカンボジアの農家の方向けの金融ビジネスです。日本でいうJAバンクみたいな役割を担うことを目指しています。
いわゆるマイクロファイナンスの仕組みを使って、低所得の農家の方にも最新の農業機械を提供するスキームを作っています。カンボジアは知られざる農業国家です。この地で金融の力を使って農業の生産性を上げたい。同時にドローンやAIなど、最先端のテクノロジーを駆使してスマート農業の成功事例を作り、将来的には先進国に逆輸入できるようなモデルを考えています。
カンボジアはいま貧しいですが、みんな目がキラキラしています。また現在はカンボジアだけでなく、ミャンマーやケニアなどの途上国にも活動範囲を広げていますが、いつも現地の人々のパワーを感じます。彼らには夢がある。明るい未来がある。逆に日本は「モノはあるけど夢がない。未来が見えない」。コロナもあって、最近は暗いニュースばかりです。自殺者も多い。
―今後のビジョンを教えてください。
日本も再び明るく幸せになってもらいたい。日本人として自分にできることは何でもやっていくつもりです。このインタビューも実は東京ではなく、石川県からリモートで受けています。石川県の羽咋(はくい))市で最先端の自然農法を実践していると聞いて視察に来たんです。明日は富山県のスマート農法を見に行きます。
日本には誇るべき技術があります。日本の技術を世界に紹介し、もっと日本を活気づかせることができたら嬉しいです。日本はもっと自信を持っていいと思います。海外に行く度に、日本の素晴らしさを改めて感じます。